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[3]犯罪の責任をすべて行為者に帰せられるのか

犯罪者と普通の人々を隔てる壁はごく薄いものだ

瀬木比呂志 明治大法科大学院教授

  こうした脳神経科学者の見解は、実は、裁判官であった私の実感にも沿うものである。私は民事の専門家だったので、刑事裁判官の経験はわずか(8カ月)しかないが、令状事務はかなりの期間担当したし、民事裁判でも、不法行為関係では、刑事事件と同じような事実関係が問題になる事案は多いので、犯罪に関わる人間行動についても、一定の感覚はもっている。

  私の感覚では、おそらく、犯罪者の多くが、まさに犯罪が行われるその時点では、もはや、「それを行わないですませる」ことはできない状況にある可能性は否定できないのではないかと思う。私は、いずれかといえば、「意識」も「自由意志」も虚構であるというラマチャンドランやエーデルマンの見解のほうが正しいのではないかと思うが、たとえ「自由意志」が虚構ではないとしても、ノーレットランダーシュも認めるとおり、「自由意志」が「脳」の決定を左右できる可能性は限られている可能性がある、と思う。

  その意味で、カミュの『異邦人』において、殺人の動機について問われたムルソーが「それは太陽のせいだ(あの時のすさまじい陽光が私に殺人を犯させた、という意味)」と語るのは、正しいと思う。また、トルストイが、『クロイツェル・ソナタ』や『悪魔』(この短編には二つの結末があるが、彼が結局採用しなかった結末では、主人公が殺人を犯す。私は、この結末のほうがより迫力があると思う)において、殺人者の心理を精密に描写し、それが彼にとって避けることのかなり難しい一つの必然であったことを明らかにしようとしているのも、正しいと思う。

  犯罪ではないとしても、人間のあらゆる情動的・情緒的行為には、同じような側面がある。たとえば、私が村上春樹の最もすぐれた作品と考えている(関根牧彦の筆名による『対話としての読書』〔判例タイムズ社〕に収めた村上春樹論参照)『国境の南、太陽の西』も、この問題を取り扱っている。主人公は、高校生時代にガールフレンドを裏切って結局破滅させ、後には、家族を捨てて幼なじみの女性(その実質は、魔性の、中年にさしかかった妖精)と逃亡することを決意する。彼がそうしなかったのは、ただ、魔性の女性が彼に黙って忽然と姿を消してしまったからにすぎない。

  この小説の比類ない切迫感は、村上のほかの小説にはないもので、

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筆者

瀬木比呂志

瀬木比呂志(せぎ・ひろし) 明治大法科大学院教授

1954年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。裁判官として東京地裁、最高裁などに勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。2012年から現職。専攻は民事訴訟法。著書に『絶望の裁判所』『リベラルアーツの学び方』『民事訴訟の本質と諸相』など多数。15年、著書『ニッポンの裁判』で第2回城山三郎賞を受賞。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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