瀬木比呂志(せぎ・ひろし) 明治大法科大学院教授
1954年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。裁判官として東京地裁、最高裁などに勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。2012年から現職。専攻は民事訴訟法。著書に『絶望の裁判所』『リベラルアーツの学び方』『民事訴訟の本質と諸相』など多数。15年、著書『ニッポンの裁判』で第2回城山三郎賞を受賞。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
欧米社会にはある同情と励まし、日米で共通するのはポピュリズム
こうした情報や経験に基づいて、私が現代日本人の問題として感じることの一つは、私たちが、徐々に、広い意味における共感、同情、哀れみ、そうした意味での想像力を失いつつあるのではないかということだ。
日本の社会は、確かに、一方では相互の細やかな心遣いを大切にする社会ではあるが、他方では、あらゆる意味での少数者(たとえば、民族的・社会的少数者等々。一例を挙げればシングルマザー等もその例に入る)に対して残酷な反応を示しやすい社会でもある。
また、ごく一般的にみても、自分の気に入らない人々(その多くは少数者)を罵倒・中傷するインターネットの匿名記述の口汚さ、醜さについては、大変残念ながら、日本のそれは際立っている。こんなにも抑圧された人々が多い社会なのか、ということを考えさせられてしまうような内容のものが、たくさんあるのだ。私は裁判官時代にこうした匿名の中傷をある程度受けた経験がある(拙著『絶望の裁判所』181頁)からわかるのだが、こうしたことを行う人間の倫理的水準は、常習的犯罪者のレヴェルに近い可能性があると思う。
そして、あらゆる意味での少数者に対して残酷な反応を示しやすい社会というこの欠点は、おそらく、共感や想像力の欠如と関係している。その少数者にとって到底承服できないようなひどいことを言ったりしたりしていないかという観点から物事をとらえる視点や想像力が欠けているから、良心の痛みすらなく、残酷なこと、ひどいことがいえて、あるいはできてしまうのだ。
この文章に関連していえば、犯罪者の家族に対する一部日本人の反応にも、それが現れている。
欧米標準でいえば、犯罪者の家族、ことに親に対する対応は、もちろん個人差はあるものの、同情と励ましであるのが普通だ。
この「個人差」がきわめて大きく、「ひどい場合には日本以上にひどい」という点が特徴的なアメリカ社会においてすら、重大犯罪者の親に届く言葉や手紙は、「大変つらい時を過ごされていると思いますが、くじけずにがんばって下さい。あなたのためにお祈りしています」というものだ。これは、私が裁判官時代のアメリカ留学中に一番感心した事柄の一つである。
また、あるアメリカ映画には、性的非行で告発された人間の家の壁に大書された罵倒の落書きを見た刑事が、「何というひどいことをするんだ」と
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