鶴見俊輔が指摘した「外に開かれない」言語システム
2017年02月17日
先日、『日本語とジャーナリズム』(晶文社)という本を刊行した。この本の主張を改めてスローガンめいた言葉で示すなら「日本語を信じるな」「日本語を使う日本のジャーナリズムを信じるな」ということにでもなろうか。
こう書き出すと何を言い出すのかと驚かれてしまうかもしれない。日本語を信じるなと言えば、ジャーナリストを含めて日本語を母語として自明の前提として用いている日本人の誰をも敵に回しかねない。とはいえ筆者は喧嘩を売りたいわけではもちろんない。この挑発的な言葉を思考の起点にしたいと思うのだ。
前後を読めば、まずそれは、日本語で語られた言葉や綴られた資料を英訳して英語圏の人々に伝えても文意が理解されにくい事情を鶴見が経験的に知っており、日本のことをカナダ人学生に英語で講じる授業でも、講義内容を多少割り引いて聴いて欲しいと言っていることが分かる。
ただ、それであれば日本語の資料は英訳しいくいと言えば済む。それをなぜ「日本人」を持ち出して述べたのか。鶴見は続く箇所で英語の移入を急いだ戦後の日本語にも触れている。「シックなドレスのファッションショー」に日本語起源の言葉は「な」と「の」しかないではないか、と。
しかし
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