共同性を超えた公共的な報道が難点、特殊論を超えられるか
2017年02月20日
こうして「それぞれが互いにとっての<汝>を意識する」ことを森は「私的二項関係」という概念で示した。日本語がこの私的二項関係の中でしか用いられない性格を持っているとしたら、そんな日本語を使ったジャーナリズムはどのような「変換」を強いられるのか。それが拙著『日本語とジャーナリズム』の問いだ。
たとえば日本語のジャーナリズムでは、判断を求められる場合にしばしば「●●とみられる」「●●といえる」といった受け身風の表現を用いる。この表現はどのように作られているか。
ジャーナリスト・評論家の玉木明は著書『ニュース報道の言語論』(洋泉社)でそこで「一人称複数の<われわれ>が一度は立てられ、消されている」と考えた。
なぜ「われわれ」なのか。特に戦後日本の報道では1946年版新聞倫理綱領に明らかに示されているように客観報道、中立報道を目指すために記者が主観を挟むことを避けようとする価値観が強かった。そこで、記者が「私」の主観で判断したのではなく、誰がみてもそう思えるだろう内容をジャーナリズムが代弁して報じることが求められる。その場合、主語は一人称でも単数の「私」ではなく、複数の「われわれ」となる。
だが、そうした経緯で採用された「われわれ」でも判断の主体が示されることは、事実が自らを語ることを理想とする客観報道の原則に照らせば望ましくないので、受身形にして主語を省略する。そうした操作が「見られる」「言える」といった表現が多用される背後にあると玉木は説明する。
この「われわれ」は、
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