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「物語の過剰」で拡散されるフェイクニュース

ノンフィクションと対立概念ではない偽ニュースは、ファクトか否かの問題ではない

武田徹 評論家

 9月29日に財団法人大宅壮一文庫の主催によりシンポジウム「フェイクニュース時代のノンフィクション」が開催された。

  司会は大宅文庫理事長にしてベテランジャーナリストの大宅映子、シンポジストとしてジャーナリストの森健、津田大介、そして私が参加した。ここではシンポジウムで言葉足らずだった部分を補いつつ、そこで語ろうとした内容を再現してみる。

「物語の過剰」という視点

  フェイクニュースとノンフィクションは対立概念ではない、というのがこの議論に臨む私の立脚点だ。そのココロはと言えばどちらも「物語の過剰」という共通点がある。

  ノンフィクションとは本来、フィクション(小説)ではない書籍の全てをさす出版流通用語であったが、たとえば大宅壮一ノンフィクション賞を獲得してきたような作品は、そうしたノンフィクションの広がりの中で、一つの事件、出来事を取り上げ、その生起から結末までを追う重量級作品が多い。かつてルポルタージュと呼ばれた作品の系譜や、米国ではニュージャーナリズムと呼ばれていた書き方などが集約されて日本の「ノンフィクション」の定型を形成して来た。

  このような日本のノンフィクション作品を「物語るジャーナリズム」として分析するべきだという考え方を拙著『日本ノンフィクション史』(中公新書)では示した。

 たとえば「物語」の語り手に注目してみる。語り手は作品内に一人称で登場することも、外から物語世界全体を語っている場合もあるが、いずれにせよ物語は一つの視点で語られる。その語り方が、言葉を中心とするものか、映像を言葉によって表現する傾向が強いか等々を分析してゆく。文学作品を分析において一時代を画した、こうした「物語分析」の手法をノンフィクション作品にも適用することで、今までと違う議論が可能になるというのが拙著の主張だ。

 「物語るジャーナリズム」は時に「物語の過剰」に至る。語り手の意欲が勝って、想像でディテイルまで書き込んでしまったり、実際には繋がっていない因果関係を事実間に読み込んだり、起承転結の展開をドラマチックに誇張してしまったり…。こうして物語性を優先させて事実から逸脱してゆくのが「物語の過剰」だ。

 たとえば「物語るジャーナリズム」の一つの典型であったアメリカのニュージャーナリズムは、事件や出来事の全貌を読者の前に臨場感溢れる現在進行系で示す近代小説のような三人称の文体が特徴だったが、「見てきたような嘘を書く」としばしば批判された。ニュージャーナリズムの書き手は数多くの取材を通じて出来事の全体像の再現をしているのだが、自分が見たわけでもない事柄をディテイルまで子細に書き込めるのは、想像力による加筆があるからだろうと疑われたわけだ。

 このように「物語るジャーナリズム」としてのノンフィクションはジャーナリズムのファクト厳守の原理から離れて行く危うさを秘めている。実際に「物語」の誘惑に駆られて「踏み外した」作品はニュージャーナリズムに限らず数多い。「物語」の形式を持っていなかったら淡々と事実を取り上げていれば済んだのだが、「物語」を意識すると魔が差してしまうのか。

 一方、フェイクニュースも「物語」を背景に持っている。フェイクニュースはゼロから作り出されたものではない。「こんなことになったら面白い」「こうなってほしい」…。そうした期待や願望がフェイクニュースには盛り込まれている。

 そんなフェイクニュースが自分の想像する範囲に収まり、自分の期待や願望とも合致した場合、ソーシャルメディアを通じてそのニュースに出会った人は「いいね」ボタンを押したり、リツイートをしたりしてフェイクニュースを拡散させる。

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