150年前、鳥羽伏見の戦いの場にいた西郷と京都の深い関わり
2018年01月05日
150年前、京都に西郷隆盛がいた。
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、薩藩討伐を掲げて大坂から京都へ攻め入ろうとした旧幕府軍が、長州・薩摩藩を中心とする新政府軍と衝突し、鳥羽伏見の戦いが勃発した。
薩摩藩の本陣は東寺にあった。西郷隆盛は、55メートルの高さを誇る五重塔の五層目に上がり、伏見の戦局を眺めたという。
伏見の港から京の市中へ入る交通の要衝、京町街道で銃撃戦が繰り広げられた。そこは豊臣秀吉が築いた伏見城下で、諸国の大名屋敷が建ち並ぶ界隈であった。街道筋には大名屋敷の御用を務める店や、伏見港に着いた旅人が疲れを癒す茶屋で賑わっていた。
鳥羽伏見の戦禍に遭った魚三楼は、今も街道沿いに暖簾をかかげる料理店である。玄関脇の格子には銃撃戦でうけた弾丸の痕が残っている。
「鳥羽伏見の戦いのとき、4代目女将が赤ん坊を背中にくくり付けて官軍の炊き出しに出かけていました。帰ってみると、店の前が戦場と化していて、官軍と伏見奉行所の幕軍とが白兵戦を繰り広げていました。店先の弾痕は、そのときのものです。女将におぶさっていた子が5代目になります」と荒木稔雄さんは語る。
魚三楼のある京町3丁目は「札ノ辻」と呼ばれ、伏見奉行所の高札の懸かるところであった。鳥羽伏見の戦いの折には、京町通に新選組が布陣。鉄砲で武装した薩摩藩を相手に白刃で斬り込んでいった。その渦中に魚三楼の店はあった。
戊辰戦争の前哨戦となった鳥羽伏見の戦いの10年前、西郷隆盛は人目を偲んで清水寺の塔頭成就院へ赴いていた。西郷の英才を見出し庭方役として重用した藩主・島津斉彬が病死したときにあたる。
若き日の西郷は、将軍継嗣問題で一橋慶喜を擁立していた薩摩藩の命を受けて、江戸に京都にと奔走していた。その渦中で、成就院住職を務める勤王僧の月照上人と出会い、心をかよわせるのである。
島津斉彬の訃報を聞いたとき、西郷は一途に殉死しようとする。その西郷を押しとどめたのが月照上人であった。しかし
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