和田秀樹(わだ・ひでき) 精神科医
1960年、大阪市生まれ。東大医学部卒。現在、国際医療福祉大教授、和田秀樹こころと体のクリニック院長、川崎幸病院精神科顧問、緑鐵受験指導ゼミナール監修。専攻分野の老年精神医学、精神分析学のほか、大学受験を中心とした教育制度・政策、自ら監督をつとめたことがある映画についての発言も多い。著書に『感情的にならない本』『心と向き合う臨床心理学』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
高齢の障碍者に対し消極的な安楽死のような医療になってはいけない
医師の実感としては、この5-10年くらいの間に、認知症高齢者(高齢者の「知的障碍」者)や寝たきり(高齢者の身体障碍者)の医療はなるべく手控える方向に向かっている。
確かに優生保護法の頃のように、彼らが必要のない人間だから消極的な安楽死のようなことを行うという話にはなっていない。
その代わりに使われる言辞が「生きていることが可哀想だ」というものだ。
当初はスパゲティ状態のようなものが問題になった。全身にチューブが入れられたり、人工呼吸器につながれてまで生き続けさせていいのか、生きる意味があるのかという議論である。
ただし、これについても、若い人が事故に遭って、同じような状態になって、このようなことが言われることはまずない。
やはり寝たきりや認知症の人を指して言うことが多いのは確かだ。
胃ろうが当たり前にできるようになって、自発呼吸がある限りは、栄養を補給し長生きできるようになると、今度はそれがやり玉にあげられる。
確かに、胃ろうの場合、誤嚥による肺炎が起こりにくいうえに、点滴と比べて、胃を通じて十分な栄養を入れることができるので、死亡リスクは下がるし、当初は目に見えて元気になる。栄養が十分なので免疫力も高く、そのためさらに死亡リスクが下がる。
かくして当たり前のように5年、10年と生きるようになると、寝たきりが続けば、全身が拘縮して、外から見て生きるのが「可哀想」な姿になることは珍しくない。すると、だから、胃ろうはやらないほうがいいという話になる。
ここで問題なのは、本人が「もう生きていたくないから、やめてくれ」というケースはほぼ皆無だということだ。というのは