思考停止をもたらしている「女の幸せは男しだい」という思い込み
2018年07月01日
なぜか泣きたいような日がある/私は生きるということがかなしくなる/それにもかかわらず/私が生きている中(あいだ)は生きねばならない/何故 (山口薫)
繰り返し起こる幼児の虐待死。実の親に殺された子どもの痩せ細った頬、からだ、目の周りの青あざ、異臭……といったメディアが伝える目を覆いたくなる事実。年端も行かぬ子どもの、そこまでひどい状態になるまでの日々を思うと、心底気持ちが暗くなる。
まるで苛(いじ)められるために生まれてきたような短い人生。どんなにつらかったことだろう。そうひとしきり怒って悲しんで、やがて私たちは心の平安や優しさといった子育てに欠かせない心情は、しょせん個々の性格から来るもので、「私なら絶対にあんな事はしない」と子殺しを犯した者と自分との間にパーティション(間仕切り)を立てて忘れようとする。
しかし、「あんな事」が起きるのは、果たして持って生まれた性格のせいだろうか。
2010年7月30日、大阪ミナミのワンルームマンションで3歳の女の子と1歳8カ月の男の子が腐敗し白骨化して見つかった。風俗店勤務の母親(23歳)は、子どもたちに2食分のジュースやおにぎりを置いたきりで放置。そしてそこを50日後に訪れたら、汚れたオムツやゴミに埋もれた状態で2人の子どもは死んでいた……という「大阪2児置き去り死事件」。逮捕された母親は保護責任者遺棄致死罪に問われ、懲役30年の刑に処せられた。30年!
情状酌量の余地無しと判断されての過酷な刑。だが多くの人は、仕方無いんじゃないのと思っただろう。まったくもって酷(ひど)い母親だからね。しかし、当人は、「かけがえのない子どもたちだった」と、執拗(しつよう)に言い続けて……。
水や食事を与えなければ遠からず死ぬと頭ではわかっているが、置き去りにしてきた我が子とは結び付かない。現実とは異なる別の世界で暮らしてるような感覚を「解離性障害」というそうな。彼女はその病理を生きていたと、精神科医は指摘する。しかし、そのことは裁判では認められなかった。
裁判がどうあるべきだったのか、私にはわからない。ただ思うことは、意思にもとづく選択や行為だけで、人は生きているわけではないということ。
そうしたかったわけではないのに、そうなってしまった……というようなことは、誰の人生にもまゝあることではないだろうか。望んでいなかった子殺しをやってしまった女もその一人なのかもしれないと思う時、浮かび上がってくるのは”自尊心の欠如“がもたらす暗闇だ。
世界各国の男女平等の度合いを表す「ジェンダー・ギャップ指数」。日本はそれが114位。世界144カ国の中での114位で、「衆議院議員は男性が9割で女性は1割」というお国柄にふさわしい順位です。ぶっちゃけた話、女にとってこの国は、いまだに「男なら馬鹿でも殿様」という世界なのだ。
そういった世界は、女が真っ当に自尊心を育むことを喜ばない。飲み会で酔った同僚のためにせっせと料理を取り分け、課長のつまらない話に上手に相づちをうつ女を、男たちは「女子力」が高いと持ち上げる。
一方、「これが私よ、男たちが気に入ろうと入るまいと」と考える女たちも年々確実に増えていて、そんな時代の変化を喜ぶ者から見れば、いまだに男あっての人生と思い込んで、「ダメな私」を支えてくれる男を求めてさまよう女は、充分クラシカルな存在だ。
「置き去り死事件」の母親もその一人。笑顔を武器にあの男ともこの男とも、求められればすぐにセックス。「男から必要とされる女」になることで、なんとか生きていく不安や怖れをやわらげようとしたのだろうか。
そうか、そんなふうだから、子どもなんて眼中になくて平気で置き去りにしたんだと、私たちはわかったような気になるが、しかし、彼女にとってネグレクト(育児放棄)とは、カミソリで自分の手首を切る自傷行為に近いものだったのではないだろうか。そんな気がしてならない。
疲れていたり自己嫌悪している時に、些細(ささい)な理由で子どもに手を上げてしまったという記憶、母親ならタブンあるはず。そう強く言えるのは、そういう話になってうなずかない母親を、私は知らないからだ。
いら立って子どもを叩(たた)きつつ、実は「受け入れることができない自己」を叩いている。そう、無意識に「ダメな私」に罰を与えているのだ。
なんのために? たとえダメでも、生きてていいと思いたいからよ。
昨今ネグレクトされる子どもが目立って増えてきて、それというのも母性喪失のゆえであると分析する人がいるが、ホントウにそうなのか。
2児を置き去り死させてしまった女は、「母親なんだから、子どもの面倒は私が見なくては……」という思いが人一倍強かったそうな。
20歳で結婚、22歳で2児の母になった女は或る日、軽い気持ちで浮気した。それがバレて夫や実の父親から即、離婚を言い立てられ、これまた軽率にも、「2人の子は私が育てます」と言ってしまった。
22歳なんて子ども同然よ。子どもが子どもを育てていくことになるというのに、周りの大人たちはそのことに懸念を抱かず、あまつさえ養育費のことを言い出す者とてなく……。後に子どもを一晩預かってほしいと頼んだ時も、すげなく断られた。
そんな見捨てられた女には、「ママ、ママ」と一途に慕ってくれる子どもだけが、唯一信じられる者たちであっただろう。
「母親であること」が心の支えの女にとって、ネグレクトはゼッタイにしてはならない、いわば自己崩壊を招いてしまう行為のはずだ。しかし我が子と自分を同一視する者は「してはならないこと」だからこそ、ネグレクトに走った。
カミソリで自分の手首を切り裂く痛みと引き換えに、「生きてていいよ」の声が聞こえた。
さて、先日目黒で起きた「5歳児虐待死事件」。アパートに軟禁され、義理の父親から殴られ続け、罰として冷水のシャワーを浴びせられ、真冬に素足のままベランダに放置され、時に1日1食しか与えられず、朝の4時からひらがなの書き取りをさせられた果てに、命が尽きた結愛ちゃん。
父母と弟(1歳)は隣室で枕を並べ、食事も外出も団欒(だんらん)もその3人だけで行う。必要とされない者として生きることは死ぬよりつらいことなのに、必死でそれに耐え、「あしたのあさはぜったいにやるんだとおもって いっしょうけんめいやるぞ」とノートに記した結愛ちゃん。
なんて凄(すご)い子どもだろう。どんな酷い目にあわされても生きることを諦めなかった。そのけなげさが、もうノートの1字1字に滲(にじ)んでいて、こういう子が命を絶たれたということへの怒りに思わず取り乱して、「自分にも何かできたのではないか」と思ったが、しかし、密室同然の空間で起きたことだ。児童相談所にもっとしっかりしてもらうために、人員と予算を増やすよう行政に働きかけるというくらいのことしか、できることはないだろう。
メディアの論調もそこ止まりだし、無念な思いで私はただ立ちすくんでいるしかなかったのだが……。
結愛ちゃんの死を止められたかもしれない人間が一人だけいる。母親だ。
手を下したのはなさぬ仲の父親だとしても、実の親である母親は、「結ぶ愛」と名づけた我が子への虐待を、なぜ止められなかったのか。夫たる人の、連れ子だけを苛(いじ)める料簡の狭さに、愛想が尽きることはなかったのか。母親曰く、「自分の立場がわるくならないよう(夫による)虐待を容認した」(読売新聞6月7日)。
あぁ、ここにもまた、「男あっての私」がいた。
夫の留守に結愛ちゃんを思いっきり抱きしめるということを、この母親は果たしてしたのだろうか。世界中が敵であっても、真実自分を大事に思ってくれる者が一人でもいたら……。と、今さら言っても仕方がないことをグチグチ患者に話していたら(あ、私、鍼灸師なんです)、遅ればせながら私にもできることが視(み)えてきた。
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