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「引き分けマニア」が観たセネガル戦

サッカーの神様は引き分けに宿る。次のポーランド戦は本当に「引き分け」でも良いのだ

中島鉄郎 朝日新聞記者

拡大サッカーワードルカップの日本・セネガル戦。後半に同点ゴールを決める本田(左から2人目)=ロシア・エカテリンブルク、2018年6月24日

最初から引き分けを目指したらダメなの?

 ドローで「勝ち点1」を得たサッカーワールドカップの日本対セネガル戦。見応えがあったのは2―2に追いついたあとだった。

 テレビ解説者の元日本代表DFの都並敏史さんが「勝ちをめざしながら、結果的に負けないで引き分けになったっていうのはいいんですから。結果的な勝ち点1はいい」と語ると、実況アナが「そうですね、守っての勝ち点1じゃないですからね」と応じた。

 2度リードされたのを死にものぐるいで追いついたあげくの「勝ち点1」。結果の「勝ち点1」はOKだけど、目的の「勝ち点1」はNGというのがおおかたのサッカーファンの感情だろう。

 西野朗監督も3試合目を「敗者復活戦」とまで表現し、2戦目で決勝トーナメント(T)進出を決める姿勢を示してきた。

 私はただの素人サッカー観戦者だが、人と少しだけ違うのは「引き分け」が大好物であることだ。「引き分けマニア」と言ってもいい。その立場から「引き分け」の意味を論じてみたい。

サッカーの神様は引き分けに宿る

 サッカーの神様は引き分けに宿る、とさえ感じることがある。最初に好きになったのが、引き分け上手なイタリアだった影響だろうか。「何もわかってない」とバカにされつつもずっと嗜好を変えることなく、なぜ「引き分け」にひかれるかを考えてきた。

 勝利は勝ち点3点、引き分けは勝ち点1点。つまり、引き分け=「勝ち点1」だ。

「勝ち点1」は、日本の社会が有する価値観と基本的に相いれない。「白黒つける」「正々堂々戦う」「守りに入らない」「フェアに戦う」。こうした勇ましい言葉群は「勝ち点1」とは仲が悪いのである。

 数日前。コロンビア戦の番狂わせ勝利で日本中が沸騰するなか、何げなくつけていたテレビ番組にタレントでサッカー通の土田晃之さんが出ており、私は12年前を懐かしく思い出した。

 ときは06年W杯ドイツ大会直前。ジーコ監督率いる日本代表に期待が集まる中、サッカー評論家のセルジオ越後さん、FC東京前監督(当時)の原博実さんと土田さんの3人で「タブーなき大激論」と銘打ち、座談会を企画したのだった。

 3人の話は「ジーコが監督じゃ絶対ダメだ」「まだ間に合う。クビにしろ」とかなりヒートアップした。日本サッカーの恩人たるジーコをここまで批判していいのかとの思いもあったが、グループリーグ(GL)初戦で当たるオーストラリアのヒディンク監督の策士ぶりと比較すると、不安でたまらなかった。「ジーコでは絶対ダメ」という結論に至り、そして 結果はご存じの通り。

 「ベスト4」が目標と公言していた日本代表。先制したものの後半39分に追いつかれ、その5分後、8分後に加点され、敗れた。1―1に追いつかれたとき、「ほら」とつい叫んだ。日本の勝利をのぞむ気持ちと同時に、自説の正しさを証明したい気持ちもある自分に気づき、驚いた。それはともかく、追いつかれて残り10分足らず、「1対1」で試合を終わらせ、勝ち点1を得ることはできなかったのかと感じた。

 

拡大サッカーワードルカップの日本・セネガル戦。前半に同点ゴールを決める乾=ロシア・エカテリンブルク、2018年6月24日

「勝ち点1」に込めた微妙な言い回し

 本題に戻そう。12年前の座談会でもお世話になった土田さんがくだんの番組に出ていたのだ。

 周囲の出演者はみなセネガル戦に向け、「今の調子なら勝てる!」「ここで決めよう!」と盛り上がっている。「セネガル戦はどうのぞむべきでしょうか」と聞かれた土田さんが、出演者を半ば戒め、掲げたボードには「勝ち点1」と書かれてあったのである。

 我が意を得たり、であった。

 「勝ち点1」は直訳するなら、それは「引き分け」を意味する。だが、もうすこし繊細に語釈を試みるなら、引き分けを狙う訳ではなく、適度に攻め、守り、リスクマネジメントをしながら結果としての引き分けなら望ましいから、それも目的として頭に入れ、戦うほうがいいという微妙な言い回しなのだと思う。

 だが、予想外の勝利に高揚し、アクセル全開となる国民世論のなかでは、素直には受け入れにくい意見である。

決勝Tは「戦争的」、GLは「外交的」

 W杯の全64試合には、性格が異なるゲームがあると思う。
①「勝ち負けを争うゲーム」
②「勝ち点を取り合うゲーム」
の2種類だ。

 決勝Tの16試合は、延長でも決着せずにPK戦にまでなることはあっても、勝ちか負けしか結果がない試合だ。ここには「勝ち点」は存在しない。

 だが、「決勝T進出」を争うGL48試合(各チーム3試合)は「勝ち点」を得るためのゲームだ。誤解を恐れずに言えば、勝つより、勝ち点をどうやって積み上げ、決勝Tに進むかが大事になる。

 それは同じじゃないかと言われるが、勝とうとするあまり攻撃人数が増え、重心が前に移ると、カウンターを食らって負ける可能性も高まってくる。そのあたりの微妙なバランス感覚で試合を進める必要がある。

 さらに4チームの総当たりなので、試合の意味自体を相対的な関係の中に位置づけないといけない。「1」を積み上げることは、自分がプラス1になると同時に、相手に3を与えないという特典もあるのだ。もちろん勝ち点3を得るための試合も必要ではあるのだが。

 これはあくまで机上の妄想に過ぎないことを断りつつ、試みに、決勝Tの「勝つための戦い」の性格を「戦争的」、GLに多くある「勝ち点を積み上げるための戦い」の性格を「外交的」と、少しだけ区別して呼んでみたい。

 戦争は「ウィナー・テイクス・オール」(勝者総取り)だが、外交には勝者なき「分配」(1点ずつ)という結果も起こりうる。

 試合に勝てば勝ち点は「3」。だから、勝利より「2」少ない「1」を分け合うのは「痛み分け」ともいえる。もちろんGLにも、2試合目のコロンビア対ポーランド戦のように実質、ゼロサムゲームとなるような「戦争的」な試合もあるけれど、星勘定の想定に基づいた試合プラン、相手の出方をうかがう様子見、時間ごとの攻守の切り替え、勝ち点獲得のために試合は全面戦争というより、外交交渉に近いように思えるときもあるのだが、どうだろうか。

「痛み分け」ではなく「喜び分け」

 話はややそれるが、サッカーの試合には、実に奇妙な、「引き分けマニア」が思わず目を凝らすような時間が突如、出現することがある。「引き分け」、すなわち「勝ち点1」の分配が「痛み分け」とはならず、両者に明確な利得の配分がある「喜び分け」になるケースだ。

 具体的な利益があるため、戦いを実質的にストップさせてしまうように見える時間である。こういう事態が起きるのは主にGL最終戦で、両チームに勝ち点1が入れば両者とも決勝Tに進出できるような場合が多い。

 4月13日、2019年女子W杯フランス大会予選を兼ねたアジアカップのGL最終戦、日本対オーストラリアの試合の残り5分間がそんな奇妙な時間だった。

 日本は終了間際に追いつかれたが、1―1で終えれば、日本もオーストラリアも勝ち点5で並び、同じ時間帯で行われ、終了していた同じ勝ち点5の韓国を得失点差で上回って出場権を獲得できる。

 そこで監督の指示を受け、最後の5分間、なにやら神妙な顔つきで最後尾のなでしこDFラインは、ひたすらボールを回した。オーストラリアの選手もその意図を「理解」し、奪いにもいかず眺めている間に試合は終わった。

 テレビ解説者の「うーん。まあ攻めてほしいですけれどもねー」といった奥歯にもののはさまった言い方が印象的だった。ネット上では、このひたすら時間をつぶすという選択に「やむなし」の声のほうが多かったように記憶する。

 ただ、追いつかれたのが後半30分だったら、残り15分間もボール回しで終えられたかどうか。監督が非難を浴びたに違いないし、そんな選択はできないだろう。だからこそ、非常に奇特な「5分間」なのだった。

「殺しも殺されもしない戦争」

 戦いの最中に、お互いの利益のため、戦いをやめる。本来スポーツには100%あり得ないし、人々はそんな姿を見たいとは思わない。だがそこに、何がしかの示唆はあるような気がする。スポーツから離れて、本当の戦争にさえ、そんな「喜び分け」的な時間が出現している事実を、ヨーロッパの歴史は教えてくれる。

 政治学者アクセルウッドの『つきあい方の科学』では、第1次世界大戦中、塹壕で相対していたドイツ軍とイギリス軍が、手加減したり、形式だけの発砲など「攻撃するふり」をしたりしながら、「殺しも殺されもしない戦争」を長い時間続けたという事例を扱っている。上官たちが士気を高揚させたり、攻撃命令を出しても、お互いの奇妙な信頼にもとづく「協調関係」はやまなかったという。

 疑いようのないゼロサムのなかで、奇跡的に出現したノー・ゼロサム(両者得)状態は何を語るのだろうか。なぜ両軍は保証もない「休戦」に入ったのだろうか。協調の根拠とは何なのだろうか。

 いけない、知ったかぶりをしてしまった。話はサッカーである。「引き分け」に戻したい。

本当に本当に「引き分け」でいいポーランド戦

 現在日本は、セネガルと並び勝ち点4。前回ブラジル大会では、決勝Tに進んだ16チームで、勝ち点4で進んだのが4チームもいる。前々回南アフリカ大会でも4チームあった。「勝ち点4」はすでにそれだけ立派な勝ち点なのだ。

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筆者

中島鉄郎

中島鉄郎(なかじま・てつろう) 朝日新聞記者

1959年、横浜市生まれ。1983年、朝日新聞社入社。朝日ジャーナル、週刊朝日、論座各雑誌の編集部のほか、be編集部、文化くらし報道部などに在籍。現在はオピニオン編集部員。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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