袴田巌さんの再審を取り消した東京高裁 何十年もたってからの新証拠はほぼ不可能
2018年07月11日
このニュースを聞いて、私は正直驚いた。再審開始は覆らないと見ていたからである。しかし、思い当たるふしはある。今回の高裁の決定について、考えられることを整理し評価したい。
高裁決定の第一の特徴は、一見、矛盾を含んだ内容であることである。もし袴田さんが真犯人なら、収監しないのはおかしいし、真犯人でなければ、再審開始しないのはおかしい。このことに裁判官が気づいていないはずはない。私の解釈は簡単で、この一見した矛盾は、袴田さんが確かに真犯人であることも、確かに真犯人でないことも、どちらでもないことを意味すると捉える。
真実はひとつだとしても、裁判における事実認定には限界がある。真実がわからない事件があるのは当然である。なぜ、私が、この事件がそうだと捉えるのか、別の角度からも見ておこう。
スコープを引いて再審事件全体を眺めると、興味深いことが見えてくる。再審と言えば、死刑冤罪4例がまず想起される。1948年の免田事件が1983年に再審無罪確定、1950年の財田川事件が1984年、1955年の松山事件が1984年、1954年の島田事件が1989年と続いた。ここで当然、もたげてくる疑問は、死刑でない事件にも冤罪はあるのではないかということである。
実際、無期刑について、1990年の足利事件が2010年、1967年の布川事件が2011年にそれぞれ再審無罪確定した。死刑事件を優先し、その後に無期の冤罪事件に対応したとの解釈が可能である。ところが、これら6事件には、注目すべき特徴がある。それは判決文で「犯人でないことは誰の目にも明らか」とまで言われたように、全員、犯人でないことが証明されている。つまり無実の死刑囚や無期刑囚を救えということだったわけである。
このことを前提にすれば、次の疑問は、真犯人であることには疑いがあるが、犯人の可能性もあるケースについて、次に対応する順番が来ているのではないかというものである。「疑わしきは被告人に有利に」という大原則に基づけば、このような場合も再審無罪判決が下されるべきである。ところが、該当事件は一つもない。これは何を意味するであろうか。
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