
1964年の東京。左下は千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ。左右の道路は首都高速4号新宿線、右上に東京タワー
開催まであと2年となり、焦点が合わない写真のように輪郭がボケていた2020年東京五輪・パラリンピックが少しずつ姿を現し始めた。
たとえば7月12日には聖火リレーの概要が決まったと報じられた。スタート地点は福島。そこから一筆書きの作法で全国をぐるりと周回して東京に到着するという。
発表に際して森喜朗・東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長は「64年の大会では聖火リレーでみんなが感動を共有できた。そのことを、次の世代に渡してあげたい」と話したという。
しかし「感動」とは危険な言葉だ。「感動的でした」の一言で、その内容の機微を覆い隠してしまうことがある。
森委員長のいうように64年五輪に「感動」があったとして、「みんな」は、何に、どのように感動していたのだろう。
64年聖火リレーの記憶――街に匂いがあった
たとえばその聖火リレーのスタート地点は沖縄だった。
ギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿跡でにぎにぎしく点火式を行った後、聖火はアテネから日本に向かった。使用されたのは聖火空輸特別機として仕立てられ、その名も“シティ・オブ・トウキョウ”号と命名された日本航空のDC-6Bだ。
いざ、一路東京へ、と鬨(とき)の声をあげたいところだが、そうは問屋がおろさない。当時の航空機の航行距離の制限もあったのだろうし、神聖なる火の醸し出す気配を経由地諸国に“おすそわけ”する趣向もあったのだろう。アテネを飛び立った特別機はイスタンブール、ベイルート、テヘラン、ラホール、ニューデリー、ラングーン、バンコク、クアラルンプール、マニラ、香港、台北(香港空港駐機中に台風による強風でDC-6Bの機体が損傷する事故が発生したため、香港―台北間のみコンベア880Mをショートリリーフとして使用)と、各駅停車の列車のようにやたら頻繁に中継地に立ち寄る。各地でセレモニーや聖火リレーが実施され、史上初めてアジアに向かう聖火が熱烈歓迎されたさまが報告され、世界が東京五輪を祝福している雰囲気が醸造されてゆく。
たっぷり寄り道をしたうえで沖縄に到着したときには9月7日となっていた。しかし――、ちょっと待ってほしい。当時はまだ返還前だ。ところが当時の沖縄が米国統治下にありながら日本体育協会に加盟していたので、スポーツの祭典においては本土並みと説明されたという(夫馬信一『1964東京五輪聖火空輸作戦』<原書房>によれば、米国側は「日本領土に到達する最初の土地が沖縄である」という表現を使わないように組織委員会に要請したり、沖縄での聖火リレーにアメリカンスクールの生徒を加えさせるなど、水面下での駆け引きもあったらしい)。
9月9日、沖縄を出発した、その名も“聖火号”(今度は全日空が担当。機体は期待の国産機YS-11の試作機だった)は、鹿児島空港に着陸。その後、今度は寄り道なしに千歳空港に向かう。開催地“シティ・オブ・トウキョウ”を飛び越えて北海道を目指したのは、聖火リレーを鹿児島始発で九州を縦断、本州の日本海側を主に通過するコースと四国を経由して主に本州太平洋側を通る北上するコース、その一方で一度、北海道まで空路で北上してから日本海側と太平洋側をそれぞれ南下するコースに四分するためだった。

米国統治下の沖縄に聖火がやってきた=久志村(現・名護市)、オリンピック写真協会/代表撮影

沖縄から聖火が本土に到着。後方は聖火を空輸した全日空「聖火号」(YS-11) =1964年9月9日
沖縄も本来は日本の領土であることを忘れていないとアピールし、沖縄を起点に日本の国土をなめるように聖火の灯で照らし出す――。まさに1964年五輪が、沖縄返還を先取りして戦後日本の国体を言祝ぐナショナルイベントだったことが、聖火リレーの経由地から浮き彫りにされる。
各コース経由でリレーされた聖火は10月7日から9日にかけて東京都庁(まだ有楽町時代だ)に集められ、9日に皇居前に設置された聖火台における集火式を経て10日午後2時35分から国立競技場に向かう最終リレーが行なわれた。
当時、6歳になっていた私は父に連れられてこの聖火リレーの見物に行っている。しかしランナーを見た記憶がない。子供の背丈では人垣に阻まれて殆ど見えなかった。父親はおぶったか、肩車したか、とにかくなんとか聖火リレーの光景を息子の瞼に焼き付かせてやろうと努力してくれていたはずだが、申し訳ないが、何も覚えていない。
なんとなく覚えているのは、詰めかけた人たちの体臭だ。高度経済成長を担った企業戦士の男性たちはデオドランドなど我関せずで、聖火リレー見物だけでなく、人混みに出かけるといつも整髪料やら汗やらその他の代謝成分やらの混じった独特の匂いをさせていたものだ。
開高健がはねまわったトーキョー