川本裕司(かわもと・ひろし) 朝日新聞記者
朝日新聞記者。1959年生まれ。81年入社。学芸部、社会部などを経て、2006年から放送、通信、新聞などメディアを担当する編集委員などを歴任。著書に『変容するNHK』『テレビが映し出した平成という時代』『ニューメディア「誤算」の構造』。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
持たざる局・フジテレビの窮余の策がヒット、純愛路線への転換も奏功
来年4月末で「平成」が終わる。バブル最盛期の1989年に始まり、格差社会が定着した2019年に幕を閉じる。インターネットの隆盛でテレビの地位が揺らぐようになった時代ともいえる。テレビが取り上げると、社会現象が起こり流行となるという爆発的な盛り上がりを見せるといった体験は薄らぎ、世の中は分断に向かっているように感じる。
しかし、社会の移り変わりを映し出すテレビ番組をたどれば、平成の時代がどのような歩みを示したかが、くっきりとわかるのではないだろうか。視聴者の意向をより直接的に番組に反映される民放に、この30年間が刻印されているにちがいない。こんな思いから、拡張を経て転換期を迎えたテレビの制作者らに会いに行った。まず、バブルの時代に「イケイケ」だったフジテレビから。
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フジテレビのドラマのヒットメーカーとして知られた亀山千広(63)=現・BSフジ社長=と大多亮(59)=現・フジテレビ常務=には、共通点がある。昭和から平成にかけて健筆をふるい脚本家「四天王」ともいわれた、向田邦子(1981年死去)、早坂暁(2017年死去)、山田太一(84)、倉本聰(83)の作品を一度も手がけていないことだ。大御所の脚本家に振り向いてもらえないことから、若手を起用したフジテレビのトレンディードラマが誕生した。
テレビ放送が始まったのは1953(昭和28)年。50~60年代のドラマは、TBSの岡本愛彦(2004年死去)やNHKの和田勉(2011年死去)らに代表される「演出家の時代」といわれた。連続ドラマが定着してきた70年代には、テレビ生え抜きの「脚本家の時代」に変わっていった。
ドラマの質を握るのは、今も昔も脚本である。その中で、視聴者の支持を集めるドラマを制作していた民放はTBSだった。BC級戦犯の悲劇を描いた不朽の名作「私は貝になりたい」(1958年)で評価を固めた。ホームドラマのあり方を覆した「岸辺のアルバム」(77年)や時代の空気を巧みに取りいれた「男女7人夏物語」(86年)など、「ドラマのTBS」の実力を示す作品群がそびえ立っていた。
このため、売れっ子の脚本家が優先して仕事をするのは、大河ドラマなどをもつNHKと民放で視聴率トップのTBSだった。
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