メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

トレンディードラマはなぜ誕生したか[1]

持たざる局・フジテレビの窮余の策がヒット、純愛路線への転換も奏功

川本裕司 朝日新聞記者

 来年4月末で「平成」が終わる。バブル最盛期の1989年に始まり、格差社会が定着した2019年に幕を閉じる。インターネットの隆盛でテレビの地位が揺らぐようになった時代ともいえる。テレビが取り上げると、社会現象が起こり流行となるという爆発的な盛り上がりを見せるといった体験は薄らぎ、世の中は分断に向かっているように感じる。

 しかし、社会の移り変わりを映し出すテレビ番組をたどれば、平成の時代がどのような歩みを示したかが、くっきりとわかるのではないだろうか。視聴者の意向をより直接的に番組に反映される民放に、この30年間が刻印されているにちがいない。こんな思いから、拡張を経て転換期を迎えたテレビの制作者らに会いに行った。まず、バブルの時代に「イケイケ」だったフジテレビから。

          ■

 フジテレビのドラマのヒットメーカーとして知られた亀山千広(63)=現・BSフジ社長=と大多亮(59)=現・フジテレビ常務=には、共通点がある。昭和から平成にかけて健筆をふるい脚本家「四天王」ともいわれた、向田邦子(1981年死去)、早坂暁(2017年死去)、山田太一(84)、倉本聰(83)の作品を一度も手がけていないことだ。大御所の脚本家に振り向いてもらえないことから、若手を起用したフジテレビのトレンディードラマが誕生した。

 テレビ放送が始まったのは1953(昭和28)年。50~60年代のドラマは、TBSの岡本愛彦(2004年死去)やNHKの和田勉(2011年死去)らに代表される「演出家の時代」といわれた。連続ドラマが定着してきた70年代には、テレビ生え抜きの「脚本家の時代」に変わっていった。

 ドラマの質を握るのは、今も昔も脚本である。その中で、視聴者の支持を集めるドラマを制作していた民放はTBSだった。BC級戦犯の悲劇を描いた不朽の名作「私は貝になりたい」(1958年)で評価を固めた。ホームドラマのあり方を覆した「岸辺のアルバム」(77年)や時代の空気を巧みに取りいれた「男女7人夏物語」(86年)など、「ドラマのTBS」の実力を示す作品群がそびえ立っていた。

 このため、売れっ子の脚本家が優先して仕事をするのは、大河ドラマなどをもつNHKと民放で視聴率トップのTBSだった。

一流の作家に振り向かれなかったフジテレビ

 フジテレビの山田良明(71)=現・共同テレビ相談役=は69年に入社、技術局放送技術部の配属となったが、制作現場を志望して本社から分離されていたフジプロダクションに70年から出向した。歌番組や情報番組を経て、78年に希望していたドラマ担当となった。しかし、「TBSが力を持っていて、一流の作家はフジテレビになかなか向いてくれなかった」と振り返る。

 当時、視聴率も低迷。78年当時、フジテレビの視聴率は、民放5局の中で、全日(6~24時)、ゴールデンタイム(19~22時)、プライムタイム(19~23時)ともに3位にとどまっていた。首位はいずれもTBSが独走していた。80年6月、会長の鹿内信隆の長男でニッポン放送副社長だった春雄(88年死去)を、フジテレビ副社長に就任させる役員人事とともに、プロダクションに分離されていた制作部門を本社に戻す組織変更が実施された。

 80年5月、編成局長には日枝久(80)=現・取締役相談役=が就任。翌81年10月に始まったバラエティー番組「オレたちひょうきん族」やクイズ番組「なるほど!ザ・ワールド」は快進撃を見せた。同じ月、「母とこどものフジテレビ」に代わり打ち出されたフジテレビのコピーが「楽しくなければテレビじゃない」だった。82年には生放送のバラエティー「笑っていいとも!」がスタートした。85年8月には、報道局が日航機御巣鷹山墜落事故で生存者救出を生中継し、新聞協会賞を受ける快挙を果たしていた。

 しかし、ドラマではTBSの後塵をまだ拝していた。21年間続くことになる「北の国から」が81年10月から6カ月の連続ドラマとして世に出てはいた。倉本聰が脚本を手がける「北の国から」と同じ時間帯に、TBSは山田太一脚本の「想い出づくり。」を編成した。視聴率では「想い出づくり。」が上回っていた。「北の国から」が上昇気流に乗ったのは「想い出づくり。」が終わった4カ月目からだった。

 「北の国から」で演出を担当した山田は86年4月、倉本の脚本で念願だった青春ドラマを実現させた。しかし、高校を卒業して間もない若者がカレー屋をカナダで開くストーリーを時任三郎や陣内孝則らが演じた連続ドラマ「ライスカレー」は視聴率10%前後で低迷した。「期待していたティーンは視聴せず、見たのは大人だった。自分が考えているものと、テレビを見ている人は違っていた。視聴者にもっと寄っていかなければいけない。若い人が見てくれる番組を作るには、時代にすり寄るドラマだ」と、山田は割り切るようになった。

 次に手がけたのは、86年10月から放送されたアイドル・中山美穂主演のラブコメディー「な・ま・い・き盛り」だった。視聴率に手ごたえをつかんだ。

脚本家も作り手も若手を起用しヒット

 若者を引きつけるドラマを作るためには、若い感性を反映する脚本が必要だ。編成局第1制作部のプロデューサーだった山田は、新人脚本家を募る「ヤングシナリオ大賞」を企画した。大家の作家がなかなか相手にしてくれない現状を打破するには、パートナーとなり得る脚本家を育成していこうと考えたのだった。山田は社長の羽佐間重彰(90)に掛け合って、総額1000万円の賞金を確保した。

 86年9月に創設が決まると、1974本の応募があった。87年4月に発表された大賞は2作品だった。坂元裕二「GIRL-LONG-SKIRT 嫌いになってもいいですか」と、深谷仁一「パンダ、誘拐される」で、87年12月にドラマ化され放送された。演出は「GIRL-LONG-SKIRT 嫌いになってもいいですか」が石坂(現・宮本)理江子(55)、「パンダ、誘拐される」が大多亮だった。大多がディレクターを務めたのはこの1作だけで、プロデューサーに転じた。

 受賞したとき、坂元(51)は19歳。奈良でアルバイト生活をしていた。山田は東京に呼び、自宅の近くでアパート住まいをさせ、フジテレビのアシスタントディレクター(AD)にしてドラマの勉強をさせた。

 制作者も若返りを進めた。ディレクターの実績を重ねたあと40歳前後になってプロデューサーになるという序列を壊すとともに、ベテランから若手へと転換する人事異動が実施された。ドラマ作りの先頭に立った山田は40代前半、主力となった大多らは30歳前後だった。

 バブルの時代が訪れていた。このとき誕生したのがトレンディードラマだった。

・・・ログインして読む
(残り:約2637文字/本文:約5472文字)