川本裕司(かわもと・ひろし) 朝日新聞記者
朝日新聞記者。1959年生まれ。81年入社。学芸部、社会部などを経て、2006年から放送、通信、新聞などメディアを担当する編集委員などを歴任。著書に『変容するNHK』『テレビが映し出した平成という時代』『ニューメディア「誤算」の構造』。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「東京ラブストーリー」のヒットと「プロデューサーの時代」の功罪
フジテレビの大多亮(59)が1988年、トレンディードラマの先駆けとなる「君の瞳をタイホする!」のプロデューサーを務めたのは29歳のときだった。
81年に入社。報道局社会部で警視庁クラブで捜査2課を担当、編成局広報部を経て、かねて志望していたドラマ制作に携われる編成局第1制作部に異動となったのは5年後だった。
一回だけ手がけたドラマの演出で、「ディレクターの才能はない」と自己判断し、プロデューサー志向を固めた。ドラマ制作陣の若返りの時期と重なり、アシスタントプロデューサーを1作経験しただけで、かつては40歳の声を聞いてなるものだったプロデューサーに就任した。
「大脚本家に玉稿をいただくのではなく、若手の脚本家に意見をガンガン言うプロデューサーに変わろうとした。トレンディードラマは出演するのは若手俳優ばかりで、一家言あるベテランもいない。自分がやりたいことができた。その結果、自然にできあがったのがトレンディードラマだった」
さらに、ディレクター(監督)の権限だった、音楽を入れる場面にも口を出すようにした。
当時、編成部主導でプロダクションに発注されたドラマ「アナウンサーぷっつん物語」(87年4月放送)などに比べ、フジ内部で手がける局制作のドラマは実績が上がっていなかった。第1制作部は「焼け野原」と呼ばれていた。「君の瞳をタイホする!」が当たらなかったら、局制作のドラマは終わりとも言われていた。重圧のもと、プロデューサーとしての思い切りが実ったのか、平均視聴率17.4%と予想を上回る結果をもたらした。
脚本家だけでなく、ディレクターとも妥協しなかった。