メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

日本橋から空と水と詩が消えた――首都高と五輪

武田徹 評論家

日本の道路元標のある日本橋の上にも63年12月、高速道路がかぶさって通った= =1964年8月拡大64年東京五輪を前に高速道路が覆いかぶさった日本橋=1964年8月

 すべての橋は詩を発散する。小川の丸木橋から海峡をこえる鉄橋にいたるまで、橋という橋はすべてふしぎな魅力をもって私たちの心をひきつける。右岸から左岸へ人をわたすだけの、その機能のこの上ない明快さが私たちの複雑さに疲れた心をうつのだろうか。

 『ずばり東京』の連載第1回で、開高健は橋に賛辞を贈っている。世界中を旅した行動派作家は、さぞかし多くの橋を渡ってきたに違いない。

 だが、開高の賛辞は、「しかし」の逆接で次の文に繋がる。

 いまの東京の日本橋をわたって心の開放をおぼえる人があるだろうか、ここには“空”も“水”もない。広大さもなければ流転もない。あるのは、よどんだ真っ黒な廃液と、頭の上からのしかかってくる鉄骨むきだしの高速道路である。

 この文章は『週刊朝日』1963年10月4日号に掲載されていた。

 その約半年前の4月11日の深夜、日本橋の上を「頭の上からのしかかってくる鉄骨むきだしの高速道路」の高架橋で覆う建設工事が行われていた。

 小説を発表し始めていた開高は54年の2月から、寿屋(現サントリー)の宣伝部で働いていた。宣伝部は当初、大阪本社にあったが、伝説の名PR誌『洋酒天国』創刊にあたって東京支店に移っている。東京支店は日本橋蛎殻町から茅場町、大手町と点々とし、日本橋から目と鼻の先の榮太樓(えいたろう)ビルに宣伝部が入っていた時期もあった。

 開高自身は58年の芥川賞受賞を機に寿屋を退職するが、嘱託としての関係は維持しており、古巣を訪ねて日本橋界隈を歩くことも頻繁にあったはずだ。

 その時、開高が目撃した、橋の下に「真っ黒な廃液」がよどみ、橋の上空には首都高速道路が覆いかぶさる日本橋の風景は、どのように作られたのか。

首都高が採用した「空中作戦」

 空路で東京に来る人たちや選手や関係者の移動を、素早く、かつ確実なものにするために交差点や信号のない都市高速道路を造る必要がある――。1964年東京オリンピックの招致が決定してひと月も経たない59年6月17日に首都高速道路公団が設立され、突貫工事が始まった。

 その時、首都高速は過去にない道路建設手法を採用した。ひと呼んで「空中作戦」――。

 たとえば代々木のオリンピック選手村至近の代々木出入口から首都高4号線に入れば、まず明治神宮と外苑の間の内外苑連絡道と並走。当初、連絡道の一部として存在していた乗馬道の上に道が造られた(美しい公園道路だった乗馬道は高速道路に上空を覆われて公営駐車場に姿を変えた)。しばらく中央線・総武線と並走し、迎賓館をトンネルでくぐって赤坂見附まで外堀通りの上空を走り、三宅坂で再びトンネルに潜る。地下に造られたインタチェンジを通り、トンネルから抜けて千鳥ヶ淵の水面を離陸するように走って北の丸公園の端っこを掘割で横切り、日本橋川の上を走る……。首都高とはトンネルと高架橋の連続体であり、高架部分は公有地の上に造られている。これが「空中作戦」の正体だ。

千鳥ヶ淵公園では水上を走る=1964年拡大建設中の首都高4号線。水上を走る千鳥ヶ淵公園付近で=1964年

戦前からあった首都高構想

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
Journalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

武田徹

武田徹(たけだ・とおる) 評論家

評論家。1958年生まれ。国際基督教大大学院比較文化専攻博士課程修了。ジャーナリストとして活動し、東大先端科学技術研究センター特任教授、恵泉女学園大人文学部教授を経て、17年4月から専修大文学部人文ジャーナリズム学科教授。専門はメディア社会論、共同体論、産業社会論。著書に『偽満州国論』、『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞)、『「核」論――鉄腕アトムと原発事故のあいだ』『戦争報道』、『NHK問題』など。

 

武田徹の記事

もっと見る