2018年08月31日
徳川時代の慶長8(1603)年に架けられた日本橋は、翌年には諸街道の起点とされて道路元標が作られた。こうして日本橋は江戸の中心であるだけでなく、全国の中心と位置づけられたのだ。橋の下の日本橋川は隅田川に繋げられ、河岸は水運で賑わった。築地に移転する前の市場は日本橋川河岸に位置していたし、橋の周辺は江戸一の繁華街となってゆく。
明治時代には雌雄の麒麟を彫刻であしらった瀟洒(しょうしゃ)な石橋に変わった。近くには証券会社が数多く創設されて近代日本の経済の中心となり、三越百貨店や白木屋などがモダンで新しい消費文化の発信地となった。
しかし東京の近代化は河川の水を汚濁させ、日本橋川も例外ではなかった。そして鉄筋コンクリート作りの首都高の高架橋が日本橋の上空に造られ、その詩情にとどめを刺した。「空も水も詩もない」と開高健が嘆いた(「日本橋から空と水と詩が消えた――首都高と五輪」)所以である。
しかし、やがて「水」は戻り始める。
実は東京の上下水道整備も五輪を画期とする。1957年にようやく完成した奥多摩の小河内ダムから供給される水道用水に加え、江戸川系、利根川系の供給体制も整備され、給水量は倍増した。下水整備も突貫工事で進められ、小台(現・みやぎ)、落合の下水処理場が五輪直前に完成している。
70年のいわゆる「公害国会」では工場の廃液規制が相当程度進んだし、そもそも都内の工場自体が80年代以降多く移転してしまった。結果として都内の川の水質はかなり回復した。
日本橋川を行き来する遊覧クルーズがあり、最近では結構な人気だというのは、そのなによりの証であろう。
2年後の同じ時期に開催される五輪を思いつつ、酷暑の中、遊覧船に乗ってみた。
「日本橋は船からみあげるのが一番、見栄えがいいんですよ」
日本橋のたもとに作られた船着き場から川を上流に遡行してゆく船上で、早くも吹き出した汗を首に巻いたタオルで拭いつつガイドが言う。以後、常盤橋、鎌倉橋、神田橋……、都心の地名としてその名を知る橋を次々に下から見上げ続けた。
上空はずっと高架橋に覆われていたが、水道橋の近くで首都高がすっと脇にそれる。遮られていた日差しが、容赦なく肌を刺すようになるが、頭上に青空が帰って来て開放感が気持ちを高揚させる。
神田川との合流地点で船は舳先を下流に向ける。工事中の御茶ノ水駅の下を通り、万世橋をくぐって秋葉原へ。サブカルの街の狂騒も川面までは届かない。宵の出番を待って係留された屋形船の脇を抜けて隅田川に出る。清洲橋をくぐったあたりでコーヒーの聖地と呼ばれるようになった清澄白河の焙煎工場から川風に乗ってコーヒーのかすかな香りが鼻腔をくすぐった。それは64年五輪の頃の、悪臭漂う隅田川であれば、感知できなかったものだろう。
水が戻ったとなると次は「空」だ。
日本橋の上空を覆う首都高を付け替えることができないか。それは地元の長く強い願望だった。その声に応えて扇千景国土交通大臣(当時。以下同様)が2003年8月に「日本橋 みちと景観を考える懇談会」を設置、検討を始めさせた。その流れに更に勢いをつけたのが小泉純一郎首相で、05年12月に奥田碩日本経団連会長、作家の三浦朱門氏、伊藤滋早稲田大教授(都市計画)、中村英夫武蔵工大学長(土木工学)の4人からなる有識者会議「日本橋川に空を取り戻す会」を設置させる。同会は翌9月に「日本の都心の象徴ともいえる日本橋地区」の美しさと魅力を創出する事業の「早急な実施を強く期待」する提言書をまとめた。
こうした提言の流れが、建設から半世紀を経て老朽化が懸念される首都高を改修する動きと合流する。2014年11月に事業許可された首都高更新計画の中には都心環状線竹橋~江戸橋間を地下化する事業費として1412億円が盛り込まれた。
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