社運をかけた制作、半年の放送予定が大幅な赤字を乗り越えて継続された
2018年09月14日
「もう二度と富良野に来ることはないよな」
フジテレビのドラマ「北の国から」を撮り終えたロケ地を後にするバスの中で、演出の杉田成道(74)=現・日本映画放送社長=と山田良明(71)=現・共同テレビ相談役=は話し合っていた。1981年10月、初回の放送を現地で見たあと打ち上げを終えて引き揚げるときだった。四季の自然の撮影を始めて1年余り、厳しかった寒さを乗り越え、安堵の気持ちに包まれていた。もともとは半年間の予定の連続ドラマだった。2人とも、まさか21年もこのドラマが続くとは想像もしていなかった。
競争を活発にするという理由で、フジテレビでは71年に制作局を廃止し、社内に複数のプロダクションが設けられて社員は出向や転属となった。しかし、思った効果は上げられず、80年春にプロダクションは廃止され、出向社員とプロパー社員の300人余りがフジテレビに吸収され、「第2の開局」とも呼ばれた。
ニッポン放送副社長だった鹿内春雄(88年死去)が副社長に就任、テレビ新広島副社長の村上七郎(2007年死去)が編成担当の専務に復帰した。村上は「テレビ局の顔になる社運をかけるドラマを」と指示した。
フジテレビ関係者によると、編成部にいた白川文造(82)が旧知の脚本家倉本聰(83)と以前交わした、「大草原の小さな家」のようなドラマをやりたい、という話が急浮上。倉本からは北海道・富良野を舞台にした企画書が送られてきた。東京から故郷の北海道に戻った男が、電気も水道もない暮らしを知らない子どもたちとともに、自然と同化するような生活を始める設定だった。東京から富良野に拠点を移した倉本が示した「東京中央集権主義」に対するアンチテーゼだった。
ドラマを一緒に手がけたことがある中村敏夫(15年死去)が奔走し、プロデューサーとして「北の国から」の実現にこぎつける。村上はロケ地の富良野を激励に訪れるほどの力の入れようだった。
半年の予定で始まった「北の国から」は81年10月の初回こそ視聴率は好調だった。しかし、同じ時間帯に放送された山田太一脚本のTBSのドラマ「想い出づくり。」が強力で、「北の国から」は作品の評価は良かったものの視聴率は落ちていった。「誰か責任を取らなければいけないのではないか」というささやきが交わされた。しかし、12月に「想い出づくり。」が終わり、翌1月に主人公の黒板五郎(田中邦衛)の妻(いしだあゆみ)が子どもたちと富良野に別れに来た回で視聴率が跳ね上がった。
制作予算がもともと通常の2倍以上に組まれていた。途中まで視聴率の成果が出なかったことで、社内の経理部門などから不満の声が出ていたという。しかし、3月の最終回で20%を超える視聴率を記録し、「大成功」と位置づけられた。視聴者からの反響も高く、当初の予算を上回った制作費への批判もかき消された。ただ、予算を管理するプロデューサーの中村は心労で胃を患い、二度入院した。
脚本づくりでは、放送する1年半ほど前に倉本と杉田、山田ら演出陣が富良野で話し合い、骨格を決めていく。登場人物にどんな出来事が起こり、子どもたちはどう成長していくか。前回の放送のあとの履歴と成育史を語り合う。
続編を手がけるときに、倉本の口から出たのが「家族のドキュメントをやらないか」という提案だった。息子の純(吉岡秀隆)と娘の蛍(中嶋朋子)の成長を追いたいので、「10年間を視野にやれないか」という発言もあった。杉田も「おもしろい。テレビでなければ出来ない」と賛同した。倉本のライフワークとなるドラマが形づくられていった。
そして、「’83冬」(83年3月放送)、「'84夏」(84年9月放送)、「'87初恋」(87年3月放送)が作られた。視聴率は毎回20%を上回り、フジテレビを代表するドラマとして定着した。五郎の借金、自宅の火事、純の初恋と東京への旅立ちと、起伏のある日々が描かれた。
一段と注目を集めたのは、純の東京での生活と看護学校に入った蛍に焦点を当てた「'89帰郷」(89年3月放送)だった。
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