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「北の国から」が続いた秘訣と終わった理由[4]

社運をかけた制作、半年の放送予定が大幅な赤字を乗り越えて継続された

川本裕司 朝日新聞社会部記者

 「もう二度と富良野に来ることはないよな」

 フジテレビのドラマ「北の国から」を撮り終えたロケ地を後にするバスの中で、演出の杉田成道(74)=現・日本映画放送社長=と山田良明(71)=現・共同テレビ相談役=は話し合っていた。1981年10月、初回の放送を現地で見たあと打ち上げを終えて引き揚げるときだった。四季の自然の撮影を始めて1年余り、厳しかった寒さを乗り越え、安堵の気持ちに包まれていた。もともとは半年間の予定の連続ドラマだった。2人とも、まさか21年もこのドラマが続くとは想像もしていなかった。

 競争を活発にするという理由で、71年に制作局を廃止し、社内に複数のプロダクションが設けられて社員は出向や転属となった。しかし、思った効果は上げられず、80年春にプロダクションは廃止され、出向社員とプロパー社員の300人余りがフジテレビに吸収され、「第2の開局」とも呼ばれた。

 ニッポン放送副社長だった鹿内春雄(88年死去)が副社長に就任、テレビ新広島副社長の村上七郎(2007年死去)が編成担当の専務に復帰した。村上は「テレビ局の顔になる社運をかけるドラマを」と指示した。

 フジテレビ関係者によると、編成部にいた白川文造(82)が旧知の脚本家倉本聰(83)と以前交わした、「大草原の小さな家」のようなドラマをやりたい、という話が急浮上。倉本からは北海道・富良野を舞台にした企画書が送られてきた。東京から故郷の北海道に戻った男が、電気も水道もない暮らしを知らない子どもたちとともに、自然と同化するような生活を始める設定だった。東京から富良野に拠点を移した倉本が示した「東京中央集権主義」に対するアンチテーゼだった。

 ドラマを一緒に手がけたことがある中村敏夫(15年死去)が奔走し、プロデューサーとして「北の国から」の実現にこぎつける。村上はロケ地の富良野を激励に訪れるほどの力の入れようだった。

 半年の予定で始まった「北の国から」は81年10月の初回こそ視聴率は好調だった。しかし、同じ時間帯に放送された山田太一脚本のTBSのドラマ「想い出づくり。」が強力で、「北の国から」は作品の評価は良かったものの視聴率は落ちていった。「誰か責任を取らなければいけないのではないか」というささやきが交わされた。しかし、12月に「想い出づくり。」が終わり、翌1月に主人公の黒板五郎(山田邦衛)の妻(いしだあゆみ)が子どもたちと富良野に別れに来た回で視聴率が跳ね上がった。

予算を上回った制作費、反響高く続編へ

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筆者

川本裕司

川本裕司(かわもと・ひろし) 朝日新聞社会部記者

朝日新聞社会部員。1959年生まれ。81年入社。学芸部、社会部などを経て、2006年から放送、通信、新聞などメディアを担当する編集委員。10年、論説委員兼務。17年4月から東京社会部。著書に『ニューメディア「誤算」の構造』。共著に『テレビジャーナリズムの現在』『被告席のメディア』『新聞をひらく』。

 

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