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消えた政治討論「サンプロ」「時事放談」[10]

3人の首相退陣のきっかけをつくった田原総一朗の追及、安倍1強で失われた党内の論争

川本裕司 朝日新聞社会部記者

田原総一朗(中央)が出演していたテレビ朝日「サンデープロジェクト」でCMの合間に慌ただしく作業するスタッフ=2006年3月12日、東京・六本木拡大田原総一朗(中央)が出演していたテレビ朝日「サンデープロジェクト」でCMの合間に慌ただしく作業するスタッフ=2006年3月12日、東京・六本木
 生放送の政治討論から数多くのニュースを発信してきたテレビ朝日の日曜朝の看板番組「サンデープロジェクト」が打ち切られたのは2010年3月だった。「サンプロ」を仕切ってきたジャーナリスト田原総一朗(84)は09年6月ごろ、当時のテレビ朝日トップから「申し訳ないけど、やめてほしい」と言われた。当時、視聴率は約7%で同じ日曜朝のNHKや他の民放の政治討論番組を上回っていただけに、意外な通告だった。

 「サンプロ」が始まったのは元号が平成に切り替わった3カ月後の1989年4月。田原は「サンプロ」などで3人の首相を辞めさせた、という伝説をつくった。

 まず、1人目は海部俊樹(87)。海部を支える竹下派支配に対し、当選同期の自民党衆院議員の、山崎拓(81)、加藤紘一(2016年死去)、小泉純一郎(76)が「YKK」を結成し、番組で海部をコテンパンに批判した。盤石と思われた首相と竹下派の関係にきしみが生じ、海部は91年11月に退任に追い込まれた。

 2人目は宮沢喜一(07年死去)だった。焦点だった政治改革法案について、93年5月の番組「総理と語る」で田原と対談、「どうしてもこの国会でやらないといけない。やりますから。私はうそをついたことがありません」と断言した。しかし、法案は成立せず、内閣不信任案が可決、自民党は分裂した総選挙のあと野党に転落。宮沢は8月に辞任した。

 最後は橋本龍太郎(06年死去)だ。98年7月の参院選のさなか、問題になっていた大幅恒久減税について田原がサンプロで「財源はどうします?」と質問したら、はぐらかされた。さらに聞くと、しどろもどろになった。その後の選挙戦で発言内容を後退させた。自民党が参院選で敗北した責任を取り、橋本は首相の座を去った。

 一番組で3人もの首相が辞めるきっかけを作った例は、後にも先にもない。発言を引き出したのは、いずれも田原だった。

国会議員の出演拒否の圧力をかけた自民党

 森喜朗内閣時代の2000年、幹事長だった野中広務(2018年死去)からは「田原さんは国会対策委員長が金曜日に野党と玉虫色の決着をつけた約束を、日曜日のサンプロでぶち壊すのはやめてほしい」と言われた。

 田原さんがサンプロ時代に唯一受けた政治家からの圧力は、小渕恵三内閣の森幹事長時代だったという。98年、経営危機に陥った日本長期信用銀行(現・新生銀行)の国有化問題で、自民党衆院議員の石原伸晃(61)と塩崎恭久(67)の出演を予定していた。しかし、自民党筋から「長銀問題を扱ってくれるな。今回は自民党の代議士は出さない」と言われ、議員に「出演するな」という指令が回ったという。自民党三役の出演拒否は10カ月間に及んだ。

 番組で田原から容赦なく追及を受けるのに、政治家はサンプロになぜ出演したのか。田原は「政治家はテレビに出てみんなに知られることは悪くない。とくに野党にとってはチャンスだ。逆に出演しない政治家は、自信がないから出ないと見られがちだった」と話す。

 ただ、宮沢、橋本と相次いで現職首相が権力を失うきっかけをつくったことに、田原は「テレビの影響力が強いんだと感じた。こんなもので政権が吹っ飛んじゃうんだという感じを改めて持った。権力は意外にもろいと感じた橋本首相が失脚するまでは、権力者には厳しくすればいい、と思っていた」。

 そして、権力に対する批判だけでなく、対案を持っていないと無責任ではないかと考えるようになった。サンプロにも対案を持つ人に出演してもらうようにした。

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筆者

川本裕司

川本裕司(かわもと・ひろし) 朝日新聞社会部記者

朝日新聞社会部員。1959年生まれ。81年入社。学芸部、社会部などを経て、2006年から放送、通信、新聞などメディアを担当する編集委員。10年、論説委員兼務。17年4月から東京社会部。著書に『変容するNHK』『テレビが映し出した平成という時代』『ニューメディア「誤算」の構造』。

 

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