3人の首相退陣のきっかけをつくった田原総一朗の追及、安倍1強で失われた党内の論争
2018年10月19日
「サンプロ」が始まったのは元号が平成に切り替わった3カ月後の1989年4月。田原は「サンプロ」などで3人の首相を辞めさせた、という伝説をつくった。
まず、1人目は海部俊樹(87)。海部を支える竹下派支配に対し、当選同期の自民党衆院議員の、山崎拓(81)、加藤紘一(2016年死去)、小泉純一郎(76)が「YKK」を結成し、番組で海部をコテンパンに批判した。盤石と思われた首相と竹下派の関係にきしみが生じ、海部は91年11月に退任に追い込まれた。
2人目は宮沢喜一(07年死去)だった。焦点だった政治改革法案について、93年5月の番組「総理と語る」で田原と対談、「どうしてもこの国会でやらないといけない。やりますから。私はうそをついたことがありません」と断言した。しかし、法案は成立せず、内閣不信任案が可決、自民党は分裂した総選挙のあと野党に転落。宮沢は8月に辞任した。
最後は橋本龍太郎(06年死去)だ。98年7月の参院選のさなか、問題になっていた大幅恒久減税について田原がサンプロで「財源はどうします?」と質問したら、はぐらかされた。さらに聞くと、しどろもどろになった。その後の選挙戦で発言内容を後退させた。自民党が参院選で敗北した責任を取り、橋本は首相の座を去った。
一番組で3人もの首相が辞めるきっかけを作った例は、後にも先にもない。発言を引き出したのは、いずれも田原だった。
森喜朗内閣時代の2000年、幹事長だった野中広務(2018年死去)からは「田原さんは国会対策委員長が金曜日に野党と玉虫色の決着をつけた約束を、日曜日のサンプロでぶち壊すのはやめてほしい」と言われた。
田原さんがサンプロ時代に唯一受けた政治家からの圧力は、小渕恵三内閣の森幹事長時代だったという。98年、経営危機に陥った日本長期信用銀行(現・新生銀行)の国有化問題で、自民党衆院議員の石原伸晃(61)と塩崎恭久(67)の出演を予定していた。しかし、自民党筋から「長銀問題を扱ってくれるな。今回は自民党の代議士は出さない」と言われ、議員に「出演するな」という指令が回ったという。自民党三役の出演拒否は10カ月間に及んだ。
番組で田原から容赦なく追及を受けるのに、政治家はサンプロになぜ出演したのか。田原は「政治家はテレビに出てみんなに知られることは悪くない。とくに野党にとってはチャンスだ。逆に出演しない政治家は、自信がないから出ないと見られがちだった」と話す。
ただ、宮沢、橋本と相次いで現職首相が権力を失うきっかけをつくったことに、田原は「テレビの影響力が強いんだと感じた。こんなもので政権が吹っ飛んじゃうんだという感じを改めて持った。権力は意外にもろいと感じた橋本首相が失脚するまでは、権力者には厳しくすればいい、と思っていた」。
そして、権力に対する批判だけでなく、対案を持っていないと無責任ではないかと考えるようになった。サンプロにも対案を持つ人に出演してもらうようにした。
政治家と真剣勝負を繰り返してきた田原は、政界と深く関わったがゆえに対応に苦慮したことがあった。
小渕内閣で98~99年に官房長官を務めた野中は2010年、官房機密費について「毎月5000万~7000万円くらい使っていた」と暴露した。自民党の国対委員長や参院幹事長のほか、評論家や野党議員らにも配ったことを記者団に明らかにするとともに、「持って行って断られたのは田原総一朗さん1人」と述べた。
田原は東京・赤坂のホテルのバーで会った野中から「いいお茶が入った。受け取ってほしい」と渡された。重いと感じた田原が「金じゃないのか」と尋ねると否定された。別れたあとトイレで中身を確認すると、現金1000万円が入っていた。自民党の有力政治家に相談しても、らちが明かない。結局、野中の地元の京都を訪ね、長文の手紙と一緒に現金を返却した。
田原が政治家から現金を渡されたのは2度目だった。田中角栄(1993年死去)が首相を退任してから6年後の80年、東京・目白の自宅で田原が初めてインタビューしたあと、現金100万円を渡された。その足で東京・平河町の田中事務所に行き、秘書に返したら、「オヤジは怒るぞ。自民党の取材は一切できなくなる。受け取ってもらいたい」と言われた。しかし、応じなかった。2日後、「オヤジがOKした」と秘書から電話があった。
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