人々の胸のうちを自覚させる問題提起
しかし、執筆者だけでなく、『新潮45』の編集意図もLGBT差別に凝り固まった単純なものだったのだろうか。
たとえば『週刊新潮』はかつて「気をつけろ、『●●君』が歩いている」(掲載時には実名。引用時に匿名化した)という記事を掲載したことがあった(1985年11月7日号)。フランス留学中にオランダ人留学生を殺害し、食人行為をしたとされる、いわゆるパリ人肉事件の加害者が日本に強制送還され、一度は収容された国内の精神科病院からも退院して自由の身になっていることを報じる内容だった。
この記事も人権侵害の疑いが濃厚であり、社会問題化した。広告の掲載を拒否したメディアもあった。
しかしその記事は対象者の人権をただ侵害するだけでなく(というのはおかしな書き方だが――)、読者に向けて「お前だって食人行為をした人間が歩いていたら不気味に感じるだろう、正直言えばなんとかして欲しいと思うのではないか」と問いかける。そうして人権を守る云々の言い方がいかに実態にそぐわない美辞麗句に過ぎないか、世間の人々に己の胸のうちを改めて自覚させようとする問題提起の性格を備えた記事でもあった。
もうひとつ、これは出版社系ジャーナリズムの「奇妙な」連携プレーの産物だが、『週刊文春』が、第一子が血友病だった作家(記事内では実名)が第二子をもうけて、やはり血友病だった件を受けて「『未然に』避けうるものは避けるようにするのは、理性のある人間としての社会に対する神聖な義務である。現在では治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う」と書く高名な文芸評論家のエッセーを掲載したことがあった(80年10月2日号。当然、著者の署名入り記事であった)。そのエッセーは『週刊新潮』80年9月18日号に先行的に掲載された、その作家が自身も生活保護を受けていながら、高額の医療費の公的負担が必要な障害児を生んだと報じた記事を踏まえており、そこでは「納税者の負担によって支えられている福祉天国」がこのままでは「パンクする」というよくある危機感の表明も一方でなされていた。
ここで『週刊文春』は、高名な評論家が本性において差別主義の傾向を帯びていることを世間に露わに示したわけだし、『週刊新潮』の記事は先の「気をつけろ、『●●君』が歩いている」と同様に、障害者との共生云々を謳う世間に対して、税負担が増すので遺伝病患者は生まれない方がいいと考える優生主義的価値観に同意できるかと問いかける一種の踏み絵となっている。