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「流れる密室」タクシーにも情報化の洪水は及び

武田徹 評論家

東京駅八重洲口タクシー乗り場で客待ちするタクシーの列 1964年11月 東京駅八重洲口のタクシー乗り場で=1964年11月 

 自動車は流れる密室である――。開高健は『ずばり東京』の一章をそう書き出している。

 これは鉄とガラスでできた応接室であり、書斎である。茶の間であり、取引のお座敷であり、しばしば寝室でもあるし、ときには便所ですらあるようだ。
 いずれにしても密室である。みんなホッと息をついてくつろぐ。朝から晩までのべつに追いたてられ、はたらかされ、他人のために生きているこの狂気の都の住人たちは、自動車にのったときだけ、自分の時間とりもどすのである。

 開高は、ただ移動の道具として自動車を見るのではなく、それが人々を日々のしがらみから解放する空間となることにも注目している。

 その文章が書かれた1963年、乗用車の生産台数は40万7830台となっていた。復興期にはトラックの生産が先行され、この時期にようやく乗用車の生産が本格化していたが、第一次マイカーブームが到来する70年代前半はまだ先。自家用車を所有できる家は限られていた。新しい、移動可能な「個室」を個々人が所有するまでにはもう少し時間が必要だった。

 しかし、その当時、庶民でも乗れる乗用車があった。

 タクシーだ。

 客を乗せて走るために乗用車を提供する仕事を日本で始めたのは、1912年、有楽町数寄屋橋に設立された、その名も「タクシー自動車株式会社」だったという。上野と新橋に営業所を構えて鵜飼いの鵜のようにT型フォード6台を街なかに放って走らせた。鵜は魚を加えてくるが、タクシーはカネを持ち帰る。料金は最初の1マイル(1.6km)が60銭、以後半マイルごとに10銭。市電の乗車賃が4銭だったことを思えばかなり高価な乗り物だった。

西鶴と『デカメロン』

 こうして1事業者、たった6台でスタートした東京のタクシーが1963年には事業者数で406、車両数1万8030台となっていた(東京乗用旅客自動車協会編『東旅協30年史――ハイヤー・タクシー発達の軌跡』、1990)。料金もこなれ、自家用車がまだまだ高嶺の花だった時代に、多くの人がタクシーで自動車という個室空間を経験する。だからこそ開高も「流れる密室」を書くためにタクシー運転手を取材している。

 あちらこちらのタクシーの運転手さんたちのたまり場になっている食堂へでかけて、つぎからつぎへと来ては去る運転手さんをつかまえて話を聞いた。彼らの観察と記憶は奇抜な偶然性にみたされていて、意表をつくものばかりだった。西鶴と『デカメロン』をごちゃまぜにして読むような気がした。

 そんな『ずばり東京』の記述に触れて、改めて2020年五輪直前の東京のタクシー事情を確かめたくなった。

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