『毛抜』『連獅子』『鈴ケ森』が初日を飾った吉例顔見世興行
2018年11月12日
「今日この日を迎えられたことは奇跡」
南座での顔見世興行の初日、三代襲名を寿ぐ片岡仁左衛門さんの口上である。
「まだ初日ゆえに心の準備ができていない」と、会場を和ませながらも、6年前に市川染五郎(現・幸四郎)さんが遭った舞台での大事故に触れ「死を覚悟したあの時を思うと、まさに今日この時が奇跡である」と語った。仁左衛門さんのことばに、高麗屋を見守り続けてきた観客は温かく微笑みながら涙した。
1981年10月に歌舞伎史上初の親子孫三代同時襲名をしてまた、もう一世代繋いで三代同時襲名がなされた。
「南座さんと私ども高麗屋とはたいへん古くからご縁がございまして、祖父、父の代から数えて、100年近いお付き合いになります」と、滔滔と弁舌鮮やかに語る松本白鸚さんは大磐石。その父の背中を追う幸四郎さんも、36年前の三代襲名では、初代白鸚のまねきを南座に上げることがかなわず(82年1月天寿)、自身も学業があったため9代目幸四郎のみの顔見世出演であったと回想される。
しかし、此度は「父も初めて松本白鸚のまねきを上げることがかない、倅もひと月学校を休ませてもらい、三代そろっての襲名披露興行がかないましたること、この上なき幸せにございます」と謳いあげた。そのまた父の背中を追う染五郎さんも「昼の部では初舞台『連獅子』を、親獅子を超える心意気で、夜の部『勧進帳』では義経を、人生最大の緊張を感じながら努めさせていただいております」と初々しくも堂々と口上を述べられた。
取材の折に幸四郎さんは「どうか見届けてください」と言われていたが、‘襲名は命を継いでいくこと’、それをまさに檜舞台でかしこまる松本白鸚・幸四郎・染五郎三代に見た。
最初は右近左近という狂言師の姿で登場する。牡丹柄の狂言袴に着流しの揃いの衣装は、幸四郎さんが初演の時に身につけていたものを染五郎さんが着て、自身もまた父白鸚さんのものを譲り受けている。二人の姿は、まるで一幅の画を見るようで、なんと美しいんだろうと感嘆した。この異次元の美に心打たれる刹那、歌舞伎ならではの醍醐味である。
右近と左近は、親獅子が千尋ヶ谷に仔獅子を突き落とす故事を舞踊で語る。その後二人は霊獣の獅子に姿を変え、紅白の牡丹が咲き誇るなかで、勇壮な獅子の舞いを魅せる。
もとより、獅子は文殊菩薩の使いである。古来‘牡丹に唐獅子’は日本画でもよく目にする対を成すものであるが、百獣の王である獅子の弱点は、自身の体内に寄生する虫である。その虫は、身の内側から肉を食らい、やがて皮を破って獅子をおびやかす。そしてその悪虫を滅ぼすのが牡丹の花にやどる夜露である。だから、獅子は牡丹の花のもとで、安心して胡蝶と戯れることができるのだ。
先月、南座開場を宣伝する取材の際に、幸四郎さんは「親獅子と仔獅子、勝つか負けるか真剣勝負の踊り比べです」と話されていた。2人揃って「最初から最後までまったく同じに毛振りする」のが、魅せるポイントといわれた。さらに、日頃いかに稽古に精進しているかが如実に顕れる、ごまかしの利かない歌舞伎舞踊だという。
そして実際の舞台を見てみると、白い牡丹のもとで舞う親獅子に瞠目した。仔獅子を前に、泰然とした存在感を放ちながら、あの白く長い獅子の毛が空中にきれいな弧を描いた。まるで毛先にまで神経が通っているかと思えるほど、寸分の乱れもない。これぞ精進の賜物、圧巻の毛振りであった。
幸四郎さんは「みんな仔獅子に注目するから……」と語っていたが、いやいや親獅子の厳かな力強さに目が離せなかった。
ほぼ初演となる染五郎さんの仔獅子も、親獅子に負けじと必死であった。若いゆえの仔獅子の葛藤がにじみ出ていた。檜舞台を踏み鳴らすその音に、負けん気の強さが現われていた。
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