菘あつこ(すずな・あつこ) フリージャーナリスト
立命館大学産業社会学部卒業。朝日新聞(大阪本社版)、神戸新聞、バレエ専門誌「SWAN MAGAZINE」などに舞踊評やバレエ・ダンス関連記事を中心に執筆、雑誌に社会・文化に関する記事を掲載。文化庁の各事業(芸術祭・アートマネジメント重点支援事業・国際芸術交流支援事業など)、兵庫県芸術奨励賞、芦屋市文化振興審議会等行政の各委員や講師も歴任。著書に『ココロとカラダに効くバレエ』。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
食べていける可能性が高いスポーツ界だからはびこる? 五輪のない芸術は逃げ道がある
オリンピックを前に、ポジティブなニュースも多いスポーツ界だけれど、一方で、パワハラや暴力など深刻なニュースも目につく。そんなニュースを見る度、「今、こんな時代だから明るみに出ているけれど、きっとずっと昔からあったのだろうな、昔はもっと酷かったのかも?」──そんな思いが私の頭をよぎる。
私は現在、芸術や文化が主な専門分野。学生時代に運動部や体育会系に所属したことはない(数週間の体験入部をのぞき)。運動神経に自信がなかったというのが大きな理由だが、それだけでなく何よりも、大学体育会の“4回生神様―1回生奴隷”に代表される、“先輩の言葉は絶対”といった雰囲気が、どうしても馴染めなかった。そんななかに入りたくなかった。スポーツそのものが嫌いでなくても、あの雰囲気は嫌いと言う人は私以外にもたくさんいるのではないだろうか?
スポーツ界の最近のパワハラ問題は、一つには、この上下関係、下からは物言えない体質に根っこがあるのではないだろうかと思える。もちろん、何かを習得しようとする時、先生や先輩といった指導者を敬うのは当然のこと。だが、白いものも黒いと言わないと成り立たないような風潮が、トップスポーツに限らず、中学や高校の部活動でも、長年、日常的にあったのではないかと、はたから見ても感じられる。
そしてもう一つ。文化や芸術に普段関わることが多いから感じることと言えるかもしれないが、どちらかというと、スポーツは文化や芸術に比べれば、“食っていける”、または何らかの明確なメリットがあることが比較的多いことも理由の一つのように思える。つまりパワーがあるからパワハラが起こると言えば良いのか……、パワーがなければ、そもそもパワハラはない、学生の芸術……というか文化系活動で、明確なパワーなんてほとんどどこにもない……ような気がする。
というのは、私は運動部や体育会活動の経験はなかったが、社会人になってから、トライアスロンの楽しさに目覚めて、3.9kmの水泳、182kmの自転車、42.195kmのロングディスタンス競技に夢中になった。これは、あくまでも趣味で部活動でもなんでもなかったので、誰に強制されることなく、競技そのものに対して努力することを楽しんだ。もちろん大きな試合に出るチャンスが広がるようになるなかで、仕事との両立など悩むこともあったのだが……。
そんな頃、たまたま、別の競技の元選手で、競技成績から大学進学した人、体育会の縁から大企業と言われるところに就職した人と友人になった。気の合うところもあったので友人になったのだが、トライアスロンについて「何のメリットもないのに、そんなしんどい競技をするなんて」と言われて、とても驚いた。
そうか、この人は、競技をしていると良い進学や就職ができるから、というのが大きなモチベーションになっていたんだという気がした。スポーツの指導者や先輩というのは、そういった具体的なメリットを与える力を持っている場合が多く、だから、もの言えない、ということもあるのだろうなと感じた。