瀬木比呂志(せぎ・ひろし) 明治大法科大学院教授
1954年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。裁判官として東京地裁、最高裁などに勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。2012年から現職。専攻は民事訴訟法。著書に『絶望の裁判所』『リベラルアーツの学び方』『民事訴訟の本質と諸相』など多数。15年、著書『ニッポンの裁判』で第2回城山三郎賞を受賞。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
最高裁による異動など報復への恐れ、問われる裁判所の権力チェック機構
7 以上によれば、おそらく前記の裁判体の裁判官の過半数は、「火山ガイドは不合理だが、社会通念論あるいはほかの何らかの理屈を用いて、原発(再)稼働差止めという判断を避けたい(そのような判断からは逃げたい)」と考えたことは推測できる。その理由が今後の異動や昇進面での不利益、最高裁および事務総局等裁判所当局からの報復への恐れであることも想像がつく。裁判官たちの間で孤立したくないということもあるだろう。
また、先のWEBRONZA記事(https://webronza.asahi.com/national/articles/2018111500008.html)でも分析したとおり、その判断の結論や理由からして、広島高裁認容決定の裁判体の裁判官たちの間にさえ迷いや意見割れがあっただろうこともうかがわれるのである。
少なくとも火山ガイドの不合理性を認めている裁判体が多いこと、以下でもふれるとおり、理由の細部のみならずその要旨についてまで論理が乱れている裁判が多いことなどからみて、先の過半数の裁判官たちにも、火山を始めとする日本の原子力規制についての問題の認識はあり、住民たちの主張を頭から否定して「火山ガイドは十分な合理性あり」との判断をするのはさすがに無理だ、という思いはあるのだろう。しかし、憲法76条3項にも冒頭に規定されている「裁判官の良心」が、その程度のものであってよいのであろうか?
裁判官たちの「逃げ」の姿勢を示すものとしての「社会通念論」の詭弁と実質それと変わらない「総合的判断論」の詭弁についてはすでに論じたので、「社会通念論」が出る前の、火山学者の猛反発を浴びた①決定の論理の乱れについても書いておこう。
先ほどの要約部分をもう一度引いてみる。読み返してほしい。よく読むと、論理がきちんとつながっていないことがわかるだろう。
『裁判所は、噴火予測に関する知見が確立していないことを認定しつつも、モニタリングは正確な予知を求めるものではないとして、「少しでも破局的噴火の兆候らしきものがあったら空振り覚悟で原発を停止し、燃料棒の搬出を行う」という事業者の主張を認め、火山ガイドもその基準適合性判断も不合理ではないと結論付けた』
これは、つまり、「噴火予測に関する知見が確立していない」以上モニタリングをしても十分に安全とはいえないのに、「モニタリングは正確な予知を求めるものではない」と変なことをいって(論理をすり替えて)、「少しでも破局的噴火の兆候らしきものがあったら空振り覚悟で原発を停止し、燃料棒の搬出を行う」という事業者の主張を認め、「火山ガイドもその基準適合性判断も不合理ではないと結論付けた」ということなのである。
広島高裁認容決定を除く以上のすべての判断についていえることだが、裁判所は、「事業者が、経済的なバランスもみながら、一応できる限りのことをやればそれでよしとする」という傾向があるように思われる。