「多くの社員を切り捨てた社長が年収何十億円」は許されるか 自白偏重のフランス司法
2018年12月12日
多くの社員を切り捨てた社長が年収何十億円という行為は、法律がどうであるかにかかわらず許されないという正義感を無視できますか。カルロス・ゴーン氏自身が、この正義感を無視できないからごまかしたのではありませんか。
ところが一方、ゴーン氏は、20年前に危機にあった日産を救った人物として高い評価もある。総体としてゴーン氏のことをどう受け止めたらよいのか論じたい。また、グローバル化が進む世界における刑事司法のあり方という観点についても分析したい。
ゴーン氏の報酬といえば、ルノー社の報酬と三菱自動車の報酬の合計が年間10億円を超えている。2009年の時効で不起訴の10億円の過少申告、豪邸の提供、親族優遇などは、事実関係が十分明らかではないのでひとまず置くとして、年間30億円どころでない所得収入があることは間違いない。
他方で、日産を救ったというのは、法人を救ったのであって、それによって日産社員を救ったわけではない。それどころか、厳しいリストラによって、関連会社も含めれば、職を失い、収入が減った人々が多数でている。これについては、ゴーン氏1人の問題ではなく、派遣労働者や外国人労働者を、恐るべき低賃金にして企業トップが巨額の報酬を得ることがまかりとおっている。
社員を豊かにし自分も高収入ならともかく、ゴーン氏の行為が道徳的に悪であることは明白であるように思う。もちろん、皆が同じ給料なら良い社会とはいかないところは当然であり、その点については後ほど述べたい。
話を戻して、この悪行は、経済学者ならアダム・スミスを想起させられ、道徳なしの経済活動の問題ということになるであろう。法学者からすれば、実質判断としてゴーン氏の行為は犯罪的ということであり、あとはどの形式に当てはめて犯罪として追及するかである。
一般論としては、形式は法技術であり、実質判断こそがむずかしい。今回のケースは、実質判断は簡単で、何罪に問うかという法技術がむずかしい。何罪にどう問うかについては意見百出しているようだが、そのなかに、虚偽記載は形式犯に過ぎないというものがあることに驚かされた。
実質的にゴーン氏の行いが犯罪的であることは明白と考えるが、グローバルスタンダードでは、これぐらいの高給は当然だとか、臆面もなく堂々と述べている人たちがいる。その人たちの勢いが強いことは事実として、私も承知している。しかし、タックスヘイブンの繁栄などを見るにつけ、その類の稼いでいる人たちは賊以外の何者でもないとしか見えない。
このような状況を鑑みるに、私が想起するのは大げさでなくフランス革命である。当時、王様や貴族が大金持ちで贅沢するのは当たり前だと言っていた人々と、これらの現代資産家の人々は重ね合わすことができる。確かに、当時の制度では、王様も貴族も認められていた。現在、企業家が巨額報酬を得ることが合法であるのと全く同じようにである。経済的不平等に怒るパリ市民のデモが向かうのは、今回はバスティーユ牢獄ではないであろう。日本には革命は起きないとしても、血盟団事件の歴史も忘れてはならない。
現在の大金持ちを生む仕組みは、グローバル化などということでカムフラージュされることもあるが、アメリカ流に他ならず、世界の資産家ランキングを見れば、ひとりで中進国の国家予算ぐらい保持する人たちがいる。しかも、その顔ぶれを見れば、そもそも公正な競争で稼いだ人たちではない、と私には思われる。
現在の経済格差は、同一国内でも中世身分制時代より酷いのではないか。そこを是正する制度ができるどころか、金持ちは政治家に献金し、政治家を使って法律を自分たちのために有利になるように変えている。わかりやすいのはカジノで、賭博であり本来犯罪であることを、うまい理屈で合法として稼ぐ、つまり犯罪を合法化して稼ぐのが今のはやりである。このまま政治が、処方箋を見つけられずにいるなら、何らかの不測の事態が起きてしまうと予想する。もはや細かい法律解釈論をやっている場合なのか、疑問なぐらいである。
もっとも、億を超える報酬を得た役員について報告するように求めた金融商品取引法の改正趣旨が、法外な高報酬の抑制だったのなら、今回のケースは簡単である。やめてからの10億円は確定していないなどは詭弁で、後からもらえる報酬をその年に可能性としても獲得したのなら記載義務は明らかであろう。
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