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和田竜さん「単純にすればいいのか」[20]

視聴者の読む力と見る力は落ちているが、安易な手法に流れるのは疑問

川本裕司 朝日新聞社会部記者

 和田竜さん 作家(番組制作会社・泉放送制作に3年間勤務)

 --大学卒業後、制作会社に入ったきっかけは。

拡大大学卒業後、番組制作会社に勤めていた作家の和田竜さん
 「高校1年のときに映画『ターミネーター』を見て、映画監督になりたい、と思ったのです。『ランボー』や『リーサル・ウェポン』など1980年代のハリウッドのアクション映画が大好きでした。黒沢明の『用心棒』や『椿三十郎』は大学時代にVHSビデオを見た世代ですが、黒沢が『映画監督になりたければ脚本を書きなさい』と言っているのを知り、学生時代は劇団で脚本を書いて演出をしていました。映画監督にすぐにはなれないので、まずテレビ局に入ってと思っていたのですが、すべてはねられ、入れてくれたのが制作会社の泉放送制作でした」

 --番組制作の現場はどうでしたか。

 「ドラマ班の配属となり、TBSの番組で下っ端のAD(アシスタントディレクター)をしていました。入社した年の7月から放送され大ヒットした『愛していると言ってくれ』のときは、原宿でのロケに人が集まりすぎて中止になったほど。弁当を配ったり、出番となる役者を呼びに行ったり、ロケの撮影で通行人を止めたり、ごみを片づけたりと、あらゆる雑用をしましたね。ただ、体育会系のノリが嫌いだったので、入った瞬間、向いていないと思いました」

 --制作現場で学んだこととは。

 「その後に担当したのは『真昼の月』や『協奏曲』『理想の結婚』『いちばん大切なひと』と、大半がTBSのドラマでした。脚本といえば文学、アートという認識をもっていたのですが、多くのスタッフにとって地に足のついた、泥くさい作品の設計図にすぎないという認識に思えたのがよかった。できるADではなく先が見えていた面もありましたが、3年は続けないと辞めぐせがつくと考え、3年弱つとめました。テレビは分業の世界で、物語の根幹の部分を作り上げる脚本家を目ざすことにしました。ドラマ班にいた同期入社の2人は、いまもドラマ制作に関わっています」

 --その後は。

 「ペンで食べていける仕事をと、業界紙『繊維ニュース』を発行しているダイセンという会社に入社しました。東レ、帝人といった企業や経済産業省などを取材しましたが、業界紙の記者をしながら、夜の12時から未明の3時ごろまで数カ月がかりで脚本を年1~2本書いては、シナリオの新人コンクールに応募していました。好きなアクションものを題材にしていましたが、選考で落ちて、なかなか結果が出ませんでした」

 --転機はあったのでしょうか。

 「現代ものがダメだったので、歴史もののバトルで書いてみたらできるかなと。破れかぶれでしたけど。そして02年に書いた『小太郎の左腕』が映画脚本コンクールの城戸賞の最終選考に残りました。翌03年、埼玉・行田の城での水攻めを描いた『忍ぶの城』が城戸賞に選ばれました。映画プロデューサーが注目して、04年から映画化に向けて動き出しました。しかし、無名の脚本が即映画化されるはずもなく、小説にして出版することになりました。半年間かけ07年に小説として世に出したのが『のぼうの城』でした。 ・・・ログインして読む
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筆者

川本裕司

川本裕司(かわもと・ひろし) 朝日新聞社会部記者

朝日新聞社会部員。1959年生まれ。81年入社。学芸部、社会部などを経て、2006年から放送、通信、新聞などメディアを担当する編集委員などを経て、19年5月から大阪社会部。著書に『変容するNHK』『テレビが映し出した平成という時代』『ニューメディア「誤算」の構造』。

 

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