
六本木ヒルズ森タワーから東京の街を見下ろす=撮影・筆者
連載 ずばり東京2020
開高健の「思いつき」は現実となった
開高健の『ずばり東京』に東京タワーの展望台から東京の街を見下ろした章がある。
一千万人の都をガラス窓の内側から見おろして私は深い息を吸いこみ、吐きだす。あるフランスの小説の若い主人公はモンマルトルの丘の頂にのぼってパリ市を見おろし、パリはおれに征服されるのを待っているといって、勇気リンリンうそぶくのであるけれど、私はそんなヤニっこい、しぶといことを考えない。コカコーラを一本飲んでから、おもむろにタバコを一本ふかし、空へ眼をあげるのである。そして、ああ、宇宙は広大であるよと考え、気の毒なミジンコのごとき人類よと考えるのである。(「東京タワーから谷底見れば」『すばり東京』)
人類よ、と呼びかけてすっかり神がかった気分になっていたらしい開高は、眼下に視線を移して自分がそれまで見ていなかったものに気づいた。
東京ニ木ガアル!
心の中で思わず叫んだ開高の眼に入ったのは青山墓地や新宿御苑などの大きな緑の塊ではない。「フジツボのようにおしあいへしあいくっつきあっている人家」が庭をつくろうとし、木を生やそうとしていた。猫の額のような庭には木が1本だけだとしても、都内全体では何百本、何千本、何万本という数字となり、上空から見下ろすと「緑が煙霧の底から浮かび上がって」くるのだ。
開高はそこに矛盾をみた。
煙霧の底であえぎつつ自分の寝室の坪数を切りつめてでも庭をつくろうとする私たちは、それほど自然を尊重しながらも、公共の自然ということになると、手のひらを返したように冷淡であり、粗暴である。たまさかの並木道や公園の汚れかた、傷みかた、衰えかたは何事であろう。(同)
おそらく広い公園があるパリやロンドンを意識しつつ開高は提案をする。
東京都内にある個人の家の個人の庭は、全部集めたら、かなりの面積になるだろう。それをみんなが、涙を呑んで公共のために提供するというわけにはいかないか。
そして、そのかわり、個人の庭を道にとかして、住居を高層アパートにしてしまうかわり、公園と並木道をすばらしいものにする。自分の庭がなくなれば、日本の公園や山は、ずっときれいになるだろう。
そしてほんとに石の町に暮すときの緑のよろこびがどんなものであるかということを、いまよりもっと鋭く深く理解できるようになるだろう。庭をとりあげられるのがイヤな人は、しょうがない、どこか地方の風光明媚な町へいって暮してもらうことだ。(同)
この「個人の家の個人の庭」を「全部集め」て「公共のために提供する」という気まぐれな思いつきは、現実のものとなった。