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六本木ヒルズ森タワーから谷底を見れば…

武田徹 評論家

六本木ヒルズ森タワーから六本木ヒルズ森タワーから東京の街を見下ろす=撮影・筆者

開高健の「思いつき」は現実となった

 開高健の『ずばり東京』に東京タワーの展望台から東京の街を見下ろした章がある。

 一千万人の都をガラス窓の内側から見おろして私は深い息を吸いこみ、吐きだす。あるフランスの小説の若い主人公はモンマルトルの丘の頂にのぼってパリ市を見おろし、パリはおれに征服されるのを待っているといって、勇気リンリンうそぶくのであるけれど、私はそんなヤニっこい、しぶといことを考えない。コカコーラを一本飲んでから、おもむろにタバコを一本ふかし、空へ眼をあげるのである。そして、ああ、宇宙は広大であるよと考え、気の毒なミジンコのごとき人類よと考えるのである。(「東京タワーから谷底見れば」『すばり東京』)

 人類よ、と呼びかけてすっかり神がかった気分になっていたらしい開高は、眼下に視線を移して自分がそれまで見ていなかったものに気づいた。

 東京ニ木ガアル!

 心の中で思わず叫んだ開高の眼に入ったのは青山墓地や新宿御苑などの大きな緑の塊ではない。「フジツボのようにおしあいへしあいくっつきあっている人家」が庭をつくろうとし、木を生やそうとしていた。猫の額のような庭には木が1本だけだとしても、都内全体では何百本、何千本、何万本という数字となり、上空から見下ろすと「緑が煙霧の底から浮かび上がって」くるのだ。

 開高はそこに矛盾をみた。

 煙霧の底であえぎつつ自分の寝室の坪数を切りつめてでも庭をつくろうとする私たちは、それほど自然を尊重しながらも、公共の自然ということになると、手のひらを返したように冷淡であり、粗暴である。たまさかの並木道や公園の汚れかた、傷みかた、衰えかたは何事であろう。(同)

 おそらく広い公園があるパリやロンドンを意識しつつ開高は提案をする。

 東京都内にある個人の家の個人の庭は、全部集めたら、かなりの面積になるだろう。それをみんなが、涙を呑んで公共のために提供するというわけにはいかないか。
 そして、そのかわり、個人の庭を道にとかして、住居を高層アパートにしてしまうかわり、公園と並木道をすばらしいものにする。自分の庭がなくなれば、日本の公園や山は、ずっときれいになるだろう。
 そしてほんとに石の町に暮すときの緑のよろこびがどんなものであるかということを、いまよりもっと鋭く深く理解できるようになるだろう。庭をとりあげられるのがイヤな人は、しょうがない、どこか地方の風光明媚な町へいって暮してもらうことだ。(同)

 この「個人の家の個人の庭」を「全部集め」て「公共のために提供する」という気まぐれな思いつきは、現実のものとなった。

森泰吉郎が買った銭湯跡地から

 開高が東京タワーに上ってから55年後に六本木ヒルズ森タワーに上ってみる。52階の展望フロアからみると実際の背丈では勝るはずの東京タワーが目下にひれ伏しているように感じられる。東京タワーと同い歳で、それこそ東京一の象徴だと思ってきた筆者は、自慢の電波塔がずいぶん小さくなってしまったように感じる。子供の頃は見上げるようだった親の身体が年老いて小さくなってしまったような気分に襲われつつ、下界を見下ろすと、開高と同じく東京にこんなに緑が多くあったのかと驚く。

 しかも、それはフジツボのようにひしめきあう民家の庭の木が見えているのではない。それらを寄せて集めた緑の確かな塊だ。

 六本木ヒルズからも見下ろせる六本木通りは64年五輪時の東京大改造で拡幅され、道路上に首都高が走るようになった。拡幅工事で沿道に密集していたアパート等が取り壊され、住民も移転した。あおりを食ったのがアパートの住人を常連客としていた「高島湯」という銭湯だった。商売上がったりとなって暖簾を下ろし、跡地が売りに出される。

森泰吉郎森泰吉郎
 それを67年に買ったのが森泰吉郎だった。森泰吉郎は明治37(1904)年生まれ。横浜市立大学で貿易論を講じる学者だったが、生家が代々営んでいた不動産業にも関わっていた。

 やがて泰吉郎は貸しビル業に乗り出し、まず西新橋の生家跡の30坪強の敷地に4階建てのビルを建てた。最初なのに第2森ビルと命名されたのは、日本石油本社ビル向かいにビルを建てる計画が先に着手されており、こちらを第1森ビルと命名していたのだが、資金繰りに手間取って完成の順番が逆転してしまったのだ。こうした番狂わせはあったものの本格的に貸しビル事業に着手しはじめた泰吉郎は59年に大学を辞め、森ビル株式会社を創業している(森泰吉郎『私の履歴書』)。

 貸しビル事業を展開するうえでの片腕となったのが泰吉郎の次男・稔だった。当時、稔は東大生だったが肋膜炎を患って留年、自宅で療養しつつ小説家を目指していた。そんな稔に泰吉郎は不動産業の手伝いを命じる。

第2森ビル森ビル発祥の地、西新橋の「第2森ビル」=東京都・港区、撮影・筆者
 にわか仕立ての業務部長の名刺を手に周辺の権利者を回る日々を送るうちに面白くなった稔は仕事にすっかりのめり込み、第2ビルの4階に管理人を兼ねて住み込んでいた。ビルの屋上に、東大新聞部で2年後輩だった江副浩正のためにバラックを建てて貸してやった稔は、リクルート社を創業することになる江副と米国流の経営法や将来についてしばしば話したという(森稔『ヒルズ 挑戦する都市』朝日新書)。

 森不動産は59年に森ビル株式会社に発展。以後、番号をふった貸しビルを次々に作ってゆく。そんな森ビルが転機を迎えたのが、この高島湯跡地の入手だった。西新橋、虎ノ門周辺をビジネスの中心としていたが、泰吉郎は教会員だった霊南坂教会の礼拝に通っており、あたりを散策する姿がよく目撃されていた。

 入手した土地を種地に更に周辺の土地を寄せ集めて共同ビルを建てようと森親子は辺(あた)りの地権者に声を掛け始めた。そこで追い風として吹いたのが69年に公布施行された都市再開発法だった。

 いざなぎ景気が進行中で都心のオフィス需要が高まることを予測した行政は戸建て住宅の密集地区を高層化する際の便宜を図るべく法律を作った。それによれば権利者の3分の2の賛成が得られれば、自ら事業の推進権を持つ再開発組合が設立でき、再開発組合で合意がえられれば、それまでの権利を再開発後の建物に引き継ぐ「権利変換」を進められる。つまり再開発組合の設立まで進められれば、立ち退きを拒む権利者が残っていても再開発が進められるようになったのだ。

東京・港区東麻布3丁目近くの上空から、麻布永坂町、東麻布、麻布台、六本木、芝公園の東京タワー方面を空撮。上方は皇居の森、朝日新聞社機から 東京・港区東麻布3丁目近くの上空から、麻布永坂町、東麻布、麻布台、六本木、芝公園の東京タワー方面。上方は皇居の森=1982年、朝日新聞社機から

トマソン煙突に登って撮影した男

 71年に東京都は都内7カ所の再開発構想を発表し、高島湯跡地に隣接する赤坂六本木地区もそのひとつとした。貸しビル業という「点的」な事業を営んでいた森ビルは、以後、行政とタッグを組んで赤坂六本木地区の再開発という「面的」な事業に取り組むことになる。

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