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中山道・妻籠宿に魅せられた外国人観光客

観光客の9割は海外から 繊細な美しさとサムライが歩いた古道への高い関心

薄雲鈴代 ライター

脇本陣奥谷=長野県南木曽町 写真提供:南木曽町教育委員会
 冬の朝、虫籠窓(むしこまど)から陽が射し、囲炉裏の間にふりそそぐ。

 妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)にある脇本陣奥谷にみられる光景である。

 「冬至の頃から立春にかけて、美しい朝日が射し込んできます」と、取材の折、南木曽町博物館の方に教えてもらった。午前9時の開館から刻々と、陽の射す模様は幻想的にかわってゆく。

 この脇本陣は、「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」と、島崎藤村が「初恋」の詩に詠った少女、ゆふさんの嫁ぎ先でもある。

 諸大名の宿所を務めていた脇本陣の傍ら、造り酒屋として代々繁盛した身代である。それゆえ、明治10年(1877)、総檜(ひのき)づくりに建て替えられた頑丈な建物が、今もそのまま残っている。ちなみに本陣のほうは、代々島崎家が務めていたが、幕府の直轄ゆえに時代の激変に持ち堪えられなかった。最後の当主島崎広助(藤村の兄)が東京へ出た後は、建物も取り壊され、現在ある本陣は、江戸後期の図面をもとに平成7年(1995)に再現されたものだ。

中山道六十三次「木曽路はすべて山の中である」

 江戸時代、江戸(東京)を起点に五街道が基幹道となった。東京日本橋から京都三条大橋をつなぐ道として、太平洋側を通る東海道と、内陸山間を通る中山道が徳川幕府によって定められた。

 そのひとつ中山道は全長約540キロ。日本橋と三条大橋のあいだに69カ所の宿場が設けられていた。なかでも馬籠から木曽谷を抜ける南北85キロは木曽路と呼ばれ、馬籠宿から贄川宿の木曽11宿は、旅籠の風情、むかしながらの石畳の山路、道ゆく景色に徒歩(かちあゆ)みの旅情があって往時を偲ばせる。

 江戸から数えて42番目の宿場である妻籠は、殊のほか江戸情緒が残る宿場である。わずか800メートルほどの宿場町で、むかしから妻籠に暮らす町民が、旅館、茶店、みやげ物屋を商い、街道沿いに軒を連ねている。

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