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[24]年越し派遣村10年。今考える成果と限界

稲葉剛 立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科客員教授

派遣村では年越しそばが振る舞われた=2008年12月31日、東京・日比谷公園
 2008年の年末から2009年の年始にかけて、日比谷公園に開設された「年越し派遣村」は日本社会に大きなインパクトを与えた。

 あれから10年。「派遣村」は日本社会の何を変え、何を変えることができなかったのか。改めて考えてみたい。

 2008年秋、リーマンショックをきっかけに始まった世界同時不況が日本にも波及し、国内では製造業メーカーを中心に派遣切りの嵐が吹き荒れた。派遣会社の寮に暮らしていた労働者を中心に多数の人々が仕事と住まいを同時に失って路頭に迷う、という緊急事態に対して、労働組合関係者、法律家、生活困窮者支援NPOのメンバーらが急遽、実行委員会を組んで実施したのが「年越し派遣村」である。

 「派遣村」の村長を務めた湯浅誠は、当時、私が理事長を務めていたNPO法人自立生活サポートセンター・もやいの事務局長であった。彼は「派遣村」が始まる直前、「入村」する人を100人くらいではないかと見積もっていたが、大みそかのNHK『紅白歌合戦』の合間のニュースで「派遣村」の開村が紹介された影響もあり、全国から約500人が支援を求めて集まった。

 「派遣村」の状況は年が明けて正月三が日の間も連日、テレビや新聞で刻一刻と紹介された。実行委員会の交渉により厚生労働省が緊急に講堂を開放したこと、集まった人たちの約半数が東京都千代田区に生活保護の集団申請を行ったこと等も連日、詳しく報道された。

派遣村の3つの成果

 私は「派遣村」が現在に至るまで日本社会を変えた点については、以下の3つの成果があったと考えている。

1. 国内の貧困問題を可視化したこと。
2. 稼働年齢層(働ける世代)も生活に困窮していれば、生活保護制度を利用できるということを社会に知らしめたこと。
3. 地方都市も含めて、各地の生活困窮者支援活動が活性化するきっかけとなったこと。

貧困問題の可視化

 1つ目の「貧困問題の可視化」、つまり「見えにくい貧困を社会に見えるようにすること」は、「派遣村」の前年(2007年)に湯浅が中心となって結成された「反貧困ネットワーク」が当面の目標として掲げていたことである。

 今では信じられないことだが、2000年代初頭までの日本では「国内に貧困問題は存在しない」という見方が一般的であった。

 小泉政権において重要閣僚を歴任した竹中平蔵氏は、2006年6月16日付朝日新聞のインタビューにおいて、「格差ではなく、貧困の議論をすべきです。貧困が一定程度広がったら政策で対応しないといけませんが、社会的に解決しないといけない大問題としての貧困はこの国にはないと思います」と公言していた。

 この竹中発言に憤りを感じた湯浅は、国内の貧困問題を可視化するため、「反貧困」をスローガンにした社会運動の構想を周囲に語るようになり、2007年4月に「反貧困ネットワーク」の準備会が発足した。

 2006年から2007年にかけての時期は、NHKの『ワーキングプア』や日本テレビの『ネットカフェ難民』など、国内の貧困に関する良質な報道も増え、若年層も含めて貧困が拡大しているという実態が徐々に人々に知られるようになっていった頃である。

 そのように「貧困問題の可視化」は進展しつつあったが、その範囲は、テレビのドキュメンタリー番組を見るような社会問題に関心の高い層に限定されていたと言わざるをえない。

 その「限界」を一気に突破したのが「派遣村」の取り組みと連日行われた報道であった。

 「派遣村」以降、竹中氏のように社会問題としての貧困の存在を否定する人はいなくなった。今では当たり前のことだが、この変化は画期的であったと言えよう。

稼働年齢層でも生活保護が利用できる

 2つ目の生活保護の運用については、「派遣村」以前からの取り組みの成果が社会に知られるようになったという面が大きい。

 本来、生活保護制度には「無差別平等の原則」があり、生活に困窮していれば、年齢に関係なく生活保護を利用することができる。稼働年齢層であっても、失業や低賃金により収入が生活保護基準を下回っていて、生活に困窮していれば生活保護を利用できるのだ。

 だが2000年代初めまでは、地域差はあるものの、稼働年齢層に対しては生活保護の申請を窓口で追い返すという違法な「水際作戦」が各地の福祉事務所で横行していた。1990年代後半から2000年代初頭にかけて都市部でホームレス問題が深刻化したのは、生活保護行政が適切に機能しなかった影響も大きい。

 状況が変わってきたのは、2000年代に入った頃である。都市部を中心に生活保護の申請支援に取り組む法律家が増え、生活困窮者を支援するNPOも法律家から学んだ法的知識を活用して、「水際作戦」を突破できるようになったのである。

 生活困窮者支援の現場に関わり、生活保護制度を法律通り運用させていこうという活動にコミットしていた法律家は、当初、一部の有志のみであったが、こうした有志の動きは日本弁護士連合会をも動かすことになる。

 2006年、日弁連は人権擁護大会で決議を行い、その中で「生存権を保障する憲法25条の理念を実務の中で現実化していくことは、人権擁護をその使命とする弁護士に課せられた責務である。しかし、これまで、生活保護の申請、ホームレス問題等の生活困窮者支援の分野における弁護士及び弁護士会の取り組みは不十分であったといわざるを得ない」と率直に反省の弁を表明した。そして今後は「生活困窮者支援に向けて全力を尽くす」と決意表明したのである。

 この決議が後押しをする形で、その後、全国各地で法律家による生活保護の申請支援の相談窓口が開設され、活動が活発化していった。私たちNPO関係者も法律家との連携を強化していった。

 こうした法律家やNPOによる活動は2006年頃から報道でも取り上げられるようになり、「稼働年齢層でも生活保護の利用はできる」という事実は徐々に知られるようになっていた。だが、このことが広く知られるようになったのは、「派遣村」での生活保護集団申請であろう。

 私自身、生活困窮者の相談現場において、自分が生活に困った際、「派遣村」の時の報道を思い出して、「自分も生活保護を受けられるのではないか」と思い、NPOに相談しようと思ったという人に何度か会ったことがある。

各地の生活困窮者支援活動が活性化

 3つ目の各地の活動への影響については、地方に行くと、「派遣村」の取り組みを報道で知り、地元で定期的な支援活動を始めたという話をよく聞く。それぞれの地名を入れた「○○派遣村」、「反貧困ネットワーク○○」という名称の団体が相談会を定期的に開催し、現在まで取り組みを継続している例も多い。

 このように「派遣村」はさまざまな点で社会にインパクトを与えたが、「派遣村」、そしてその基盤となった「反貧困」運動が社会に与えたプラスの影響を減殺するような動きも近年、強まってきている。

 「貧困問題の可視化」は成功し、貧困の存在を否定する人はいなくなったものの、現在は2008年~2009年に比べると、貧困対策を求める声が大きく広がっているとは言えない状況にある。

 むしろ、

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