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拡大派遣村では年越しそばが振る舞われた=2008年12月31日、東京・日比谷公園
 2008年の年末から2009年の年始にかけて、日比谷公園に開設された「年越し派遣村」は日本社会に大きなインパクトを与えた。

 あれから10年。「派遣村」は日本社会の何を変え、何を変えることができなかったのか。改めて考えてみたい。

 2008年秋、リーマンショックをきっかけに始まった世界同時不況が日本にも波及し、国内では製造業メーカーを中心に派遣切りの嵐が吹き荒れた。派遣会社の寮に暮らしていた労働者を中心に多数の人々が仕事と住まいを同時に失って路頭に迷う、という緊急事態に対して、労働組合関係者、法律家、生活困窮者支援NPOのメンバーらが急遽、実行委員会を組んで実施したのが「年越し派遣村」である。

 「派遣村」の村長を務めた湯浅誠は、当時、私が理事長を務めていたNPO法人自立生活サポートセンター・もやいの事務局長であった。彼は「派遣村」が始まる直前、「入村」する人を100人くらいではないかと見積もっていたが、大みそかのNHK『紅白歌合戦』の合間のニュースで「派遣村」の開村が紹介された影響もあり、全国から約500人が支援を求めて集まった。

 「派遣村」の状況は年が明けて正月三が日の間も連日、テレビや新聞で刻一刻と紹介された。実行委員会の交渉により厚生労働省が緊急に講堂を開放したこと、集まった人たちの約半数が東京都千代田区に生活保護の集団申請を行ったこと等も連日、詳しく報道された。

派遣村の3つの成果

 私は「派遣村」が現在に至るまで日本社会を変えた点については、以下の3つの成果があったと考えている。

1. 国内の貧困問題を可視化したこと。
2. 稼働年齢層(働ける世代)も生活に困窮していれば、生活保護制度を利用できるということを社会に知らしめたこと。
3. 地方都市も含めて、各地の生活困窮者支援活動が活性化するきっかけとなったこと。

貧困問題の可視化

 1つ目の「貧困問題の可視化」、つまり「見えにくい貧困を社会に見えるようにすること」は、「派遣村」の前年(2007年)に湯浅が中心となって結成された「反貧困ネットワーク」が当面の目標として掲げていたことである。

 今では信じられないことだが、2000年代初頭までの日本では「国内に貧困問題は存在しない」という見方が一般的であった。

 小泉政権において重要閣僚を歴任した竹中平蔵氏は、2006年6月16日付朝日新聞のインタビューにおいて、「格差ではなく、貧困の議論をすべきです。貧困が一定程度広がったら政策で対応しないといけませんが、社会的に解決しないといけない大問題としての貧困はこの国にはないと思います」と公言していた。

 この竹中発言に憤りを感じた湯浅は、国内の貧困問題を可視化するため、「反貧困」をスローガンにした社会運動の構想を周囲に語るようになり、2007年4月に「反貧困ネットワーク」の準備会が発足した。

 2006年から2007年にかけての時期は、NHKの『ワーキングプア』や日本テレビの『ネットカフェ難民』など、国内の貧困に関する良質な報道も増え、若年層も含めて貧困が拡大しているという実態が徐々に人々に知られるようになっていった頃である。

 そのように「貧困問題の可視化」は進展しつつあったが、その範囲は、テレビのドキュメンタリー番組を見るような社会問題に関心の高い層に限定されていたと言わざるをえない。

 その「限界」を一気に突破したのが「派遣村」の取り組みと連日行われた報道であった。

 「派遣村」以降、竹中氏のように社会問題としての貧困の存在を否定する人はいなくなった。今では当たり前のことだが、この変化は画期的であったと言えよう。

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筆者

稲葉剛

稲葉剛(いなば・つよし) 立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任准教授

一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事。住まいの貧困に取り組むネットワーク世話人。生活保護問題対策全国会議幹事。 1969年広島県生まれ。1994年より路上生活者の支援活動に関わる。2001年、自立生活サポートセンター・もやいを設立。幅広い生活困窮者への相談・支援活動を展開し、2014年まで理事長を務める。2014年、つくろい東京ファンドを設立し、空き家を活用した低所得者への住宅支援事業に取り組む。著書に『貧困の現場から社会を変える』(堀之内出版)、『鵺の鳴く夜を正しく恐れるために』(エディマン/新宿書房)、『生活保護から考える』(岩波新書)等。

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