2018年12月28日
「(ゴーン氏が)もし有罪にならなかったらどうなるんですか?」女性アナウンサーが訊くとコメンテーターの若狭勝・元東京地検特捜部副部長が答えた。「特捜部は解体、検察上層部は辞職を余儀なくされるでしょうね」。
この直前のやりとりでは、若狭氏は「(検察は)ゴーン氏が釈放されて記者会見されると困るからではないか。そのために1月に予定していた逮捕を前倒しした」と答えていた。東京地裁が2度目の勾留の延長を却下したことで「保釈される」と話題騒然となった日産自動車前会長のカルロス・ゴーン氏を、東京地検特捜部が特別背任容疑で「3度目の逮捕」をして、保釈を阻止した12月21日夜の番組だ(テレビ東京)。
私は驚嘆した。テレビのニュース・ショーで、刑事専門家としてコメンテーターに呼ばれる人は、逮捕されたり、起訴されたりした人が、どんなに悪いことをしたのかを警察・検察の公式発表を超えた意見も交えて解説するのが普通で、逮捕や起訴をした警察・検察の思惑や、その成り行きを第三者的な視点から論評するのを聞いたのは初めてだ。
通常日刊紙や、テレビ報道局の番組も、国際的著名人ゴーン氏の日本での逮捕・勾留の報道に沸き立った当初は、これまでのまま警察・検察の広報的な表現で始まった。
最初の逮捕報道ではどのメディアも「2011年3月期~15年3月期のゴーン容疑者の役員報酬が99億9800万円だったのに計約49億8700万円と虚偽の記載をした」と、99億9800万円は現実に受け取っていたという捜査側の事件の見方をそのままに、いわゆる「垂れ流し」報道をしていた。
しかし関係国の受け止め方の特派員報告や、国際的な批判の論調を紹介したり、それに付随して日本の刑事手続きと比較したりすることなどが必要になる中で、わずかずつながら第三者的な観点が入るようになってきて、呼称も「容疑者」より「前会長」の方が多くなる傾向にあった。
そこに「『日本でも珍しい』海外も関心 ゴーン前会長の勾留延長却下」(12月21日付朝日新聞の見出し)が起こった。
前回書いたように法律上は、勾留延長は裁判所が「やむを得ない事由があると認める」ときにだけ許される例外なのだが、「昨年1年間に延長請求が却下されたのは、全体のわずか0.3%」(21日付読売新聞)という逆転した実務に慣らされていたメディアは、ショックを受けた。「『裁判所はこれまで特捜部の請求は認めるとされていた。今回の判断は想定外だ』 特捜部OBの率直な感想だ」(12月21日付産経新聞)。
地裁が勾留延長を却下したのは、金融証券取引法違反での2度目の逮捕勾留の期限が切れる12月20日。翌日からは最初の勾留が終わった時点で特捜部がした「有価証券報告書虚偽記載」での起訴による「起訴後の勾留」となり、起訴前勾留には保釈という制度が無い特異な制度の日本のでも保釈請求ができることになる。
「弁護側保釈請求へ」(20日付朝日新聞)「ゴーン被告近く保釈か」(21日付読売新聞)「ゴーン前会長近く保釈」(21日付毎日新聞)。後から見れば保釈実現の確実性の度合いが各紙で微妙に違うのだが、メディアは皆「保釈の可能性」に沸き立った。事実、日産自動車前代表取締役のグレッグ・ケリー氏は翌日保釈請求して認められ、銀行の窓口が開く3連休明けに解放された。
そしてゴーン氏について、「保釈の可能性が浮上する中で行われた東京地検特捜部による急転直下の逮捕劇」(22日付読売新聞「『保釈』一転逮捕」)「保釈阻止と受け取られるリスクもあった今回の再逮捕劇」(同日付毎日新聞「保釈恐れ焦る検察」)と期せずして複数の社で「再逮捕劇」という検察を突き放した表現も使われた。
「保釈への道 特捜衝撃 ゴーン前会長2度逮捕に疑義」という21日付朝日新聞の見出しをずっと先に延ばした先に、テレビ東京のアナウンサーの「もし有罪にならなかったら」という問いかけ「特捜部解体」コメントという、これまでになかったマスコミの姿が出てきた。
国境を「突き抜ける」trans nationalなゴーン事件が、日本のこれまでの島国のnationalな報道を変えるのだろうか。
米誌タイムは2018年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー(今年の人)」にトルコで殺害されたサウジアラビア人記者のジャマル・カショギ氏らを選び「多大な犠牲を払っても真実を追い求め、そして声をあげ続けた」と称えた(12月12日付読売新聞夕刊)。ジャーナリズムが、国家権力や大企業などの「力の行使」を客観的に検証することができるか、しているかどうかは、その国の民主主義のバロメーターだ。
「検察側は20日の東京地裁の決定を不服として準抗告を申し立てたが、これも同日中に退けられた。検察は今後、最高裁に特別抗告ができるが、特別抗告が認められるのは、限られた場合だけだ」。10月に最高裁が別事件で出した決定で、大阪地裁が「一連一体の事実で関係者も同じ。必要とされる捜査も大半が共通する」と認定し、再逮捕後の勾留請求を「不当な蒸し返しだ」として却下した決定に対する検察の特別抗告を認めなかった例があるからだという(21日付朝日新聞から)。
しかし却下決定が現実のものとなって、「どうしても身柄を放したくなかった」検察は「保釈恐れ」「一転」3度目の逮捕をするしかなかった。
却下決定をした裁判官はおそらく「国際的に問題になる事件なのだから、法の原則に従おう」といった意識的な判断をしたわけではなく、最高裁の判例があるから従ってもいいだろう、くらいの気持ちだったのではないだろうか。
それでも検察は裁判所がまさか勾留延長却下をするとは思っていなかった。裁判所というものは、検察の捜査に協力する、捜査のための検察の手法を理解して、求める通りの決定を出す。そういう永年の「信頼」を裏切られた検察の狼狽、そして怒り。
「同じ罪名での2分割に対する批判は、本当に捜査実務を分かっていない」、「裁判所は検察と心中するつもりはないということだ。はしごを外された」、「国際世論に配慮して早期釈放すれば『日本の裁判所は検察と違う』と英雄視されるから」。検察幹部や検察関係者は東京地裁の決定に対してこう漏らしたという(21日付朝日新聞)。
同日付毎日新聞は、検察幹部の発言として「捜査上、必要だから勾留延長してほしいと請求したのに、認めないということは『捜査するな』と言われたようなもの。信じられない」、「非常識な判断、裁判所は腰が引けているのではないか」と書いた。
戦後憲法を受けて1948(昭和23)年に近代化された今の刑事訴訟法の勾留制度。しかしその後70年のうちに、検察の要求に裁判所が応じるまま、原則と例外が全く逆転してしまった。日本では法律の意味(解釈)を決めるのは裁判所ではなく検察の実務だという実態に安心しきっていた検察の狼狽と怒りが激しいのは、日本の司法の歴史に理由がある。
国民国家は、成立した初期には、予算も権限もまだ小さくて、外敵から自国民を守るという最低の機能をもつだけの「夜警国家」、チープ・ガバーンメントだった。
時代と共に、国家が権限を増すことは、行政権の肥大と不可分で、国民国家は「行政国家」となる。学者によって「福祉国家」とも呼ばれるのは、アメリカのソーシャル・セキュリティナンバーで分かるように、福祉は人民の掌握を制度的前提にする。
行政国家が肥大した行政機構をもって支配しても、自由を求める人々は、国家統治の強大化に反対し続ける。文明水準が高い民族ならば、国家は反対を押さえつける方法としてすべて「裸の国家暴力」を使うことはできないから、政権者は司法にその機能を担わせる。これが「司法国家」の時代だ。
アメリカの出版社メリアム・ウェブスターが選ぶ「2018年の言葉」はjusticeに決まったという。
司法国家レベルにあっても、なお「法と良心のみに従って正義を守る」裁判の仕事に生きがいを感じる裁判官がいて、国民がそれを支持することができるのが、民主主義が健全に機能している国だ。
アメリカでは2017年、移民制限のトランプ大統領令に対して、複数の連邦地裁と巡回裁判所の裁判官たちが違憲判決をした。トランプ氏が反対を押し切って右派の裁判官を最高裁に送り込んだ後の今年12月に、最高裁はこの差し止めを支持する判決を出した。保守派のロバーツ裁判官も加わった5対4の多数に加わった結果だ(12月23日付産経新聞より)。
モリ・カケ事件の処理でも明らかなように、行政が極度に肥大した国家である日本国の裁判官たちはどうだろうか。
裁判官の中で、位人臣を極めた最高裁判事でも「政府の方針に反する」ことが難しい。「1票の格差」を違憲無効と言えず「違憲状態」だが無効ではないと言葉の意味不明の判決を繰り返す日本の司法の世界。
裁判官の6割を占めると言われる「優柔不断型裁判官」の中には、
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