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[18]阪神・淡路大震災で進展した地震調査研究

福和伸夫 名古屋大学減災連携研究センター教授

3連休翌朝の未明に襲った震度7

黒煙を上げて燃え上がる神戸市長田区。道路は阪神高速道路=1995年1月17日、朝日新聞社ヘリから
 阪神・淡路大震災から24年が経つ。1995年1月17日(火)午前5時46分に明石海峡の地下を震源とするマグニチュードMj7.3の兵庫県南部地震が発生した。直下の活断層による観測史上初の震度7の強い揺れが、淡路島、神戸、芦屋、西宮を襲った。1月14日~15日はセンター試験、16日は成人の日で、3連休の翌朝の未明の地震だった。

 私は、愛知県内の自宅で就寝中に、揺れを感じた。その後、テレビニュースで見た被害映像からは、その後報じられる甚大な被害まで想像することはできなかった。当日の午前中は、建築不良工事の訴訟に関わる調査のため岡崎市に出かける必要があり、自家用車の中でラジオから被害情報を入手しながら出かけた。調査が終わって大学に赴く途中聞いたラジオ報道から、被害の大きさが徐々に実感できるようになった。

 大学に戻り、活断層分布図を確かめているときに、地元新聞社から同行取材の依頼があり、夕刻、近鉄で難波に向かった。大阪の様子は落ち着いていたが、大渋滞で尼崎のホテルに一泊し、翌朝、被災地に入った。被災地を見て、あらゆるものが壊れている情景に言葉を失った。現地を訪れた建築技術者は、皆同じ思いを抱いたと思う。

戦後最大の被害で時代を画した大震災

 大都市・神戸をはじめ、人口が密集する京阪神地区を強い揺れが襲い、5千人もが犠牲になった1959年伊勢湾台風を上回る戦後最悪の自然災害となった。西日本での大地震は、3700人を超す犠牲者を出し震度7を新設する契機にもなった1948年福井地震以来である。しかし、平成になって、1993年釧路沖地震、北海道南西沖地震、1994年北海道東方沖地震、三陸はるか沖地震と、北海道や東北の地震が続発し始めていた。

 平成に改元した1989年には、消費税の導入、ベルリンの壁の崩壊、マルタ会談による東西冷戦終結など歴史的な出来事が続いた。1990年には東西ドイツ統一、1991年に湾岸戦争勃発、ソ連の崩壊と続いた。この頃から、日本の景気も後退し始め、バブル崩壊で雲行きが怪しくなった。そして、1993年に自民党分裂と細川内閣成立、1994年には自社さ連立の村山内閣成立と、東西冷戦や55年体制が終わり、社会の価値観も大きく変わるときだった。地震発生2カ月後には地下鉄サリン事件も発生した。まさに、阪神・淡路大震災は日本の時代を画す一大事件だった。

未明の地震のため自宅の倒壊が命を奪った

 2006年5月19日に消防庁が被害を確定させいるが、この地震での死者は6434人、行方不明者は3人だった。死者のうち6402人は兵庫県で発生した。負傷者は重傷10,683人、軽傷33,109人に及ぶ。なお、死亡率は福井地震や1923年関東地震の方が上回る。

 未明の地震だったため、自宅で就寝中の人が多く、住家の倒壊が犠牲者の死因の8~9割を占めた。万一、昨年の大阪府北部の地震のように、地震発生時間が2時間遅れていたら、多くの人は通勤・通学途上で、新幹線も走っていた。万一脱線すれば、福知山線の事故のような惨状が多数発生したと想像される。また、昼間の地震であれば、倒壊したオフィスビルや工場の中で犠牲になる人が多く、その安否確認に手間取ったであろう。

甚大な建物被害

 住家被害は、全壊104,906棟(186,175世帯)、半壊144,274棟(274,182世帯)、一部破損390,506棟、計639,686棟である。非住家も公共建物が1,579棟、その他40,917棟が被害を受けた。

 被害は、1981年に改定された建築耐震基準を満たさない既存不適格建築物が中心だった。とくに、古い木造家屋や10階建程度の中高層ビルの中間階の崩落、マンションの1階ピロティの崩落などの被害が目立った。神戸市役所2号館や神戸市立西市民病院の被害は象徴的だった。

 当時、多くの人は、地震は静岡で起きるもので、関西では起きないと思っていた。建築構造設計者も例外ではなく、高層ビルの設計では東京や名古屋と比べ、地震の揺れを2割低減していた。

あらゆるものが壊れ社会が止まった

 公共施設等の被害は、文教施設が1,875カ所、道路7,245カ所、橋りょう330カ所、河川774カ所、崖くずれ347カ所、ブロック塀等2,468カ所になる。とくに、神戸市東灘区深江地区で阪神高速道路が635mにわたり17基の橋脚が倒壊したことは、衝撃的だった。また、西宮市仁川では大規模な地滑りが発生し34人が犠牲になった。

 火災件数は、建物火災269件、車両火災件9件、その他火災15件の計293件である。焼損床面積835,858 ㎡で、一昨年の糸魚川市での30,412 ㎡を上回る。焼損棟数は全焼7,036棟、半焼96棟、部分焼333棟、ぼや109棟の計7,574件であり、り災世帯数(火災)は8,969世帯だった。長田区周辺の火災被害は甚大だったが、無風に近かったため、関東地震や福井地震のような壊滅的な延焼火災は免れた。

 ライフライン・インフラの被害も甚大で、電気は比較的早く復旧したが、鉄道、水道、ガスは復旧に時間を要し、被災地の生活は困難を極めた。また東西の物流が途絶えたため、全国の製造業にも大きな影響を与えた。この地震による被害総額は国土庁の推計は約9.6兆円(国土庁推計)、兵庫県の推計は約9.9兆円とされている。

直下の活断層と地下構造が生み出した強い揺れ

 これらの被害を生み出した最大の原因は、直下の活断層の活動による震度7の強烈な揺れである。この地震では、大阪府北西部から兵庫県の淡路島にかけて位置する六甲・淡路島断層帯の一部が活動した。淡路島北部の野島断層では、断層が地表に露出し、断層南東側が南西方向に1~2mずれ、同時に南東側が0.5~1.2m 隆起した。この断層は天然記念物に指定され、その後整備された北淡町震災記念公園で見ることができる。

 神戸市内を中心に震度7の「震災の帯」が現れた。百万人もの人が震度7の揺れを同時に経験したのは後にも先にもこの地震だけである。震災の帯ができた原因として、直下の活断層が活動したことと、神戸特有の地下構造による揺れの増幅的干渉があるとされた。その揺れ方は、

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