
東京・飯田橋の警視庁総務部会計課遺失物センター=撮影・伊ケ崎忍
連載 ずばり東京2020
『ずばり東京』を連載していた1963年末、開高健はその年最後の刊行となる週刊誌に掲載されるにふさわしい“シメククリ”の題材を探していた。
思案の結果、飯田橋の「遺失物収容所」(と、開高は冗談めかして呼んでいた。当時の正確な名称は「警視庁総務部会計課遺失物管理所」)を開高は訪ねる。
いままでに私が行った国では、イスラエルがいちばん小さい。総面積が四国ほどしかなく、人口は二百万である。それでも国連に席を持ち、空港には完全ジェットの長距離旅客機を持っている。東京の人口は一千万なのだから、人口だけからみると、立派な独立国を五つもかかえこんでいることになる。
この一千万の人間がじっとしているのならべつだが、世界一のあわただしさで、血相変えて、右に左に、東西南北へ走りまわるのであるから、その体からはじつにさまざまなものが遠心分離機にかけたみたいにとび散るのである。とび散ったものはネコババされたり、交番にとどけられたりするが、とどけられただけでもその数字はちょっと想像を絶するものがある。
以後、開高は“とび散っ”て拾われ、届けられて遺失物収容所に運びこまれたモノどもの来し方、行く末を縷々(るる)書いてゆく。
人の歴史は、忘れ物、落とし物の歴史
今は年の瀬ではないが、そろそろ平成の世も終わりだ。その“シメククリ”も意識して筆者も東京・飯田橋の「遺失物収容所」(正確な名称は開高の頃から変わって警視庁総務部会計課遺失物センター)に行ってみた。
人の歴史は、忘れ物、落とし物の歴史でもある。そして、その対応の歴史である。
日本では602(推古10)年に始まる聖徳太子による法令整備の中に、早くも遺失物に関する規定があったそうだ(石井良助『日本法制史概説』)。内容はスジを通して明快だ。ある者の所有物であることが明らかな物件は所有者に戻すべし。そんなシンプルな規定は鎌倉・室町時代にも引き継がれる。江戸時代になって、“落とし物は持ち主の元へ”の原則に加えて、落とし主は拾得者に1/10の報労金を出すことや、3日たって所有者が現れない拾得物は拾得者のものになるという内容が加わる。これが近代的な遺失物の扱い、たとえば1876(明治9)年制定の遺失物取扱規則に実を結んでゆく。
東京市が遺失物を集中管理するようになったのは1881(明治14)年。警視庁が設置されてまもなく馬車便で回って市中の落とし物を集め始めた。集められた忘れ物を求めて、「それはワタシのものだ」と落とし主が参集する“メッカ”に飯田橋がなったのは1941年から。家出人収容所として作っていた施設を用途変更して遺失物集積所にしたのだという。
1945年に集積所は空襲で焼失したが、48年の4月から総務部会計課の附置機関として遺失物管理所が再開される。
開高がそこを訪ねたのは64年五輪に向かう坂道を東京の街が駆け上がり始めたころだった。そのあと、東京の街は坂を登ったり、下ったり、転げ落ちたりしながら今や2度目の五輪を目前に控えている。日本の人口は11年前(2008年)を頂点に既に減少へと転じているが、東京の人口はいまだに増加中で、2018年11月で1385万人になった。
そんな東京の遺失物事情はどう変わったか。