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遺失物、年に396万個。社会変化の波が見える

武田徹 評論家

東京・飯田橋の警視庁総務部会計課遺失物センター=撮影・伊ケ崎忍

 『ずばり東京』を連載していた1963年末、開高健はその年最後の刊行となる週刊誌に掲載されるにふさわしい“シメククリ”の題材を探していた。

 思案の結果、飯田橋の「遺失物収容所」(と、開高は冗談めかして呼んでいた。当時の正確な名称は「警視庁総務部会計課遺失物管理所」)を開高は訪ねる。

 いままでに私が行った国では、イスラエルがいちばん小さい。総面積が四国ほどしかなく、人口は二百万である。それでも国連に席を持ち、空港には完全ジェットの長距離旅客機を持っている。東京の人口は一千万なのだから、人口だけからみると、立派な独立国を五つもかかえこんでいることになる。
 この一千万の人間がじっとしているのならべつだが、世界一のあわただしさで、血相変えて、右に左に、東西南北へ走りまわるのであるから、その体からはじつにさまざまなものが遠心分離機にかけたみたいにとび散るのである。とび散ったものはネコババされたり、交番にとどけられたりするが、とどけられただけでもその数字はちょっと想像を絶するものがある。

 以後、開高は“とび散っ”て拾われ、届けられて遺失物収容所に運びこまれたモノどもの来し方、行く末を縷々(るる)書いてゆく。

人の歴史は、忘れ物、落とし物の歴史

 今は年の瀬ではないが、そろそろ平成の世も終わりだ。その“シメククリ”も意識して筆者も東京・飯田橋の「遺失物収容所」(正確な名称は開高の頃から変わって警視庁総務部会計課遺失物センター)に行ってみた。

 人の歴史は、忘れ物、落とし物の歴史でもある。そして、その対応の歴史である。

 日本では602(推古10)年に始まる聖徳太子による法令整備の中に、早くも遺失物に関する規定があったそうだ(石井良助『日本法制史概説』)。内容はスジを通して明快だ。ある者の所有物であることが明らかな物件は所有者に戻すべし。そんなシンプルな規定は鎌倉・室町時代にも引き継がれる。江戸時代になって、“落とし物は持ち主の元へ”の原則に加えて、落とし主は拾得者に1/10の報労金を出すことや、3日たって所有者が現れない拾得物は拾得者のものになるという内容が加わる。これが近代的な遺失物の扱い、たとえば1876(明治9)年制定の遺失物取扱規則に実を結んでゆく。

 東京市が遺失物を集中管理するようになったのは1881(明治14)年。警視庁が設置されてまもなく馬車便で回って市中の落とし物を集め始めた。集められた忘れ物を求めて、「それはワタシのものだ」と落とし主が参集する“メッカ”に飯田橋がなったのは1941年から。家出人収容所として作っていた施設を用途変更して遺失物集積所にしたのだという。

 1945年に集積所は空襲で焼失したが、48年の4月から総務部会計課の附置機関として遺失物管理所が再開される。

 開高がそこを訪ねたのは64年五輪に向かう坂道を東京の街が駆け上がり始めたころだった。そのあと、東京の街は坂を登ったり、下ったり、転げ落ちたりしながら今や2度目の五輪を目前に控えている。日本の人口は11年前(2008年)を頂点に既に減少へと転じているが、東京の人口はいまだに増加中で、2018年11月で1385万人になった。

 そんな東京の遺失物事情はどう変わったか。

落とし主を待つ遺失物センターを訪ねる

 まず遺失物管理所は1978年に改築されて現在の5階建てビルの遺失物センターになった。センターで取材に応じてくれた大久保昭二所長によれば「平成29年に拾得された遺失物数は約396万個」だそうだ。開高が数えた時よりもさらに増えた人口が、相も変わらず右に左に、東に西に、南に北にと走り回るのだから「体から遠心分離機にかけたみたいにとび散る」飛沫が増えていくことは予想できたが、開高の記事の遺失物数87万個からなんと約4倍以上となっている。

 改築なった遺失物収容所は1階に落とし主が訪ねる窓口と事務スペースがあり、それ以外のフロアはほぼ保管スペースとなって続々と運び込まれてくる遺失物を迎えている。

 開高と同じように内部を案内させてもらおうとしたが、そう簡単ではなかった。聞けば遺失物の特徴が知らされると、それを手がかりに「自分が落としたものだ」と言ってくる輩が現れかねない。トラブルを未然に防ぐためにセンターではこれまで傘を置いてあるフロアだけを取材に公開してきたのだという。

 「そこをなんとか」と頼み込んで鉄道事業者から落とし物が運ばれてくるフロアの見学と撮影が許された。ゆっくりと上下する人荷兼用の大きなエレベーターの扉が開くと、フロア全体に棚が組まれ、棚の上には土嚢袋のような袋が所狭しと積まれていた。

=撮影・伊ケ崎忍「海鉄」はJR東海での忘れ物=撮影・伊ケ崎忍

 その中に遺失物が入っているわけだが、もちろん中身は見えない。分かるのはその袋がどこからやってきたかだ。たとえば「西鉄」と書いてある袋は、はるばる九州から届いたわけではなく、東京「西」部の多摩地区のJR駅で拾得された遺失物が入っている。同じように「海鉄」というのは、ロマンチックな響きだがJR東海を意味する符号だそうだ。要するに新幹線に乗って東京駅に届いた落とし物が詰められた袋なのだ。他にも東京都を走る私鉄の名前が記された袋がある。

 誤解なきようにしたいが、ここは遺失物の“終の棲家”ではない。運び込まれた遺失物は3ヶ月間保管され、名乗り出る落とし主を待つ。実際、建物1階の窓口ではひっきりなしに来客に応対していたし、倉庫フロアを見ているわずかな時間の中でも袋の中の遺失物を取りに来る職員の出入りがあった。データベースを照合すればその袋にどの日に搬入されたどの遺失物が入っているか分かる仕組みになっており、運良く落とし主と巡り会えた遺失物は引き取られてゆく。

 しかしランデブーが許されているのは3ヶ月に限られる。3ヶ月経つと鉄道事業者経由で運ばれた遺失物は鉄道事業者に戻され、そこで買取業者に引き取らせたり、廃棄処分される。

 ちなみに遺失物法では当初、最低で1年と14日(最長1年6ヶ月と14日間)警察で保管することを義務づけていた。だが所有者への返還は3ヶ月以内に99%弱が済まされ、6ヶ月経てばもはや動きがなくなる。そこで1958年に保管期間を「半年と14日」に短縮するように法改正された(福永英男『遺失物法注解』)。開高が取材したのはこの時期だったが、2007年の改正でそこから更に3ヶ月に短縮されて今に至る。

松葉杖、車椅子、遺骨入り骨壷…

 というわけで、ここは遺失物を3ヶ月預かるだけの“中間貯蔵施設”なのだが、それにしても相当の物量である。傘専門のフロアに移るともはや凄まじいの一言だった。「3ヶ月分で6万本以上はあると思います」。大久保所長が言う。

 「ひと雨3000本という感じです。2018年は梅雨が少なかったので秋のほうが多かったですね。雨が降ってくると職業柄、また3000本来るなと思ってしまう」

「ひと雨3000本傘の忘れ物は「ひと雨3000本」=撮影・伊ケ崎忍

 他のフロアは鉄道事業者からではなく、いろいろ途中経由地はあったのだろうが地元の警察署に届けられた拾得物が運び込まれている。こちらは3ヶ月経つと都の帰属物となり、やはり処分されることになる。

 「遺失物が増えてゆくのは、ある意味、当然だと思いますよ」と大久保所長は言う。「昔は携帯電話はなかったし、音楽機器も持ち運びできるようになったのですから」。持ち運べるようになるということは、落とせるようになることでもあるのだ。

 「健康保険証も財布に入るようになった。昔は大きくて持ち歩かなかったので落とすことは滅多になかったはずです。マイナンバーカードもできた。昔は通勤通学する会社員と学生しか定期券を持っていなかったけど、今はみんなスイカやパスモを使っている。こうして色々なカードが増えたというのも件数増加の大きな一因でしょう」

 確かに2017年度の拾得物点数でいうと証明書類が70万点で首位、次点が有価証券類で52万点だ。増えたカード類は性格によってこのいずれかに分類されるのだろう。以後のランキング上位は衣類・履物類、財布類、傘類、かばん類、携帯電話類、電気製品類と続く。開高の時には傘がトップで9万9000本、以後、銭入れ、衣類、風呂敷(!)と続いており、持ち物内容の変化がそのまま遺失物品目の変化につながっている。

 街の呼吸に合わせるように遺失物の傾向も移ろう。「年末になると宝くじが増えてきたり。冬場は手袋、帽子など衣類が多くなりますね。私の想像では、電車の中や街を歩いている時にスマホに夢中になったり、音楽に夢中になったりしていて注意力が薄れて忘れるのではないでしょうか」と大久保所長が言う。さらに「手袋は右手が多いように思うんですね。スマホを操作するのに右手の手袋を外して、そのうちに落としてしまうのではないかと思います」。それを調べてみたくて、手袋の場合は、右か左かを数えてみるように職員に言ったところ「忙しくてそこまでやってられない」と拒否され、落とした手袋の左右の偏りは未確認のままだと苦笑する。

 拾得物リストの中には思わず首を傾げてしまうものも含まれる。たとえば松葉杖、たとえば車椅子……。どうして忘れたのか、忘れた後どうしたのか。

お骨も位牌も、そして供え物の造花やリンゴまで、全部が落とし物である 1963年12月260年代の落とし物には、お骨や位牌、供え物の造花やリンゴまで。骨壺の遺失物は今でもある=1963年12月

 開高も書いていた遺骨入り骨壷の忘れ物は今もある。2017年は3体だったが前年は10体あった。「死体遺棄に関係するとか事件性が疑われれば別ですが、調べて何もなければ落とし物として扱い、3ヶ月すれば拾われた市区町村でなんらかの処分をします。区が契約している葬儀会社が直接取りに来ることもあります」。

 取りに来ないのは、納骨ができないので意図的に置きっぱなしにしたからなのか、あるいは他に事情があったのか――。遺失物は私たちに何かを語りかけたがっているように感じる。だが持ち主の手から離れてしまった遺失物はその言葉を声にして伝えてもらうことがもはやできない。だから遺失物がどんな物語を背負っていたのかは気になっても分からない。

 しかし、個々の遺失物の声は聞こえないが、社会の変化の波がそこに示されていることは確かだろう。遺失物は世に連れ、世は遺失物に連れ、なのである。そしてその変化の波は平成末の今になって、眼に見えるかたちに結晶しつつあるらしい。 (つづく)