選手、指導者、審判、そして観客の視点からたどる「イチロー論」
2019年03月25日
始まりのあるものには、終わりがある。
「最低50歳まで現役を」と公言していたイチローだが、体力、技術の衰え、さらにトレーニングや動作解析の方法の進歩などによる投手の急速の向上、スイングスピードと打球の角度を重視する「フライボール革命」の登場など、自分自身と周囲の状況の変化により、ついに現役の引退することになった。
しかし、日本のプロ野球での7年連続首位打者や、大リーグでの年間最多安打262本など、日米の球界に大きな足跡を残したイチロー選手の価値は揺るがない。今後、たとえ「イチロー2世」と呼ばれる選手が現れても、否、現れればなおさら、イチローという選手の存在感はますます高まるであろう。
そもそもイチロー選手の価値はどこにあるのか? 彼は大リーグで何を実現し、周囲からどのように評価されたのか? そして何を残したか? 大リーグが見た「イチロー」を振り返ってみたい。
2005年6月14日、シアトル・マリナーズの本拠地セーフコ・フィールド(現T-モバイル・パーク)では、フィラデルフィア・フィリーズを迎えて交流戦が行われていた。
試合を取材していた筆者がマリナーズの打撃練習中、フィリーズのダッグアウトの前を通り過ぎると、一人の選手に呼び止められた。声の主は、当時フィラデルフィア・フィリーズに在籍していた二塁手のチェイス・アトリー選手だった。
大リーグに昇格して3年目の26歳の彼は、マリナーズの打者たちが練習する姿をダッグアウトから熱心に眺めていた。そして、「この前のイチローの打撃はどうだった?」と私に尋ねたのである。
1日前の試合で5打数無安打だったと告げると、アトリー選手は信じられないという表情をしながら、「彼でも打てないときがあるんだな」とつぶやいた。この何気ない一言に誘われて、筆者が打撃練習を眺めている理由を尋ねると、アトリー選手は次のように答えた。
「自分自身の打撃だけではなく、相手球団の打撃も気になる。特に、同じ二塁手の打撃には自然と目が向く。遠征先でミーティングが早く終わったときなどは、対戦相手の打撃練習を見る絶好の機会なので、できるかぎりグランドに行くようにしている。ミーティングで『好調だから注意しよう』と指摘された選手は、特に気になる。もしかしたら、自分の打撃を向上させる手がかりがあるかもしれないから」
守備力と長打力を兼ね備え、評論家から「フィリーズの二塁は10年は安泰」とまで言われたアトリー選手が、イチロー選手のどこを見ていたのか。
「あの打撃練習を見ているだけで勉強になる。一回として無駄に打っていないし、自分の番が回ってくるたびに色々な打ち方を試している」
選手生活の後半は故障に苦しんだが、アトリー選手は2000年代の大リーグを代表する二塁手として活躍した。そのアトリー選手にとって、長打力より打撃術に定評のあったイチロー選手は、目の前にいる、優れた打撃の手本の一人だった。
次に紹介するのは、ドン・ベイラー氏によるイチロー選手の評価だ。
1970年にボルティモア・オリオールズに昇格して以来、1988年に引退するまで19年間にわたって大リーグで活躍し、1979年には打率.296、36本塁打、139打点、120得点で打点王と最多得点を記録して最優秀選手に選ばれるなど、1970年代から1980年代を代表する打者の一人であったベイラー氏は、イチロー選手を高く評価した一人だった。
2005年にマリナーズの打撃コーチを務めていたベイラー氏は、実際に接したイチロー選手を「自分のストライクゾーンを持っている」と指摘する。
ベイラー氏によれば、優れた打者は自分だけのストライクゾーンを持っているし、自分のストライクゾーンに忠実だという。そして、これまで打者として「超一流だ」と言われる選手はほとんど例外なく、他の選手からするととても打てそうにはない、あるいは打つのがためらわれる球でも平然と打つ。
こうした選手はしばしば「悪球打ち」と言われる。しかし、実際には自分が打ちやすい球を打っているのに過ぎないのであり、彼らは決してあたりかまわずバッドを振っているのではない。むしろ、自分が打てる球だからこそ、ワンバウンドした球でも外角を大きくそれる球でも、あるいは目元を通る球でも打てるのだ。
さらに、ベイラー氏がイチロー選手を評価する要素としてあげたのが、「意外性」だった。意外性とはマジックやトリックではない。対戦相手も仲間も、そして自分自身でさえ「そんなことは絶対ないだろう」という場面で「絶対ない」はずの打撃をできることだ。
意外性の典型例は、「本塁打を打つはずのない選手が、狙って本塁打を打つ」、あるいは「強打者が送りバントをする」というものである。別の言い方をすれば、意外性は「出来るのにやってこなかったことをする」あるいは「意図して相手の裏をかく」ということだ。
一般に、イチロー選手は凡打を安打にする走力の持ち主といわれる。裏を返せば、非力な打者とみられている。しかし、実は彼は必要な時に本塁打を打つことができるし、その気になれば本塁打を量産することも可能であった。ベイラー氏は、そのような能力を持っているにもかかわらず、長距離打者の道を選ばなかったことが、イチロー選手の意外性を形づくる要素だと指摘する。
塁が埋まっている場面で「本塁打を打たれるかもしれない」と思うと、相手バッテリーは、大量失点を避けようとどうしても慎重な投球になる。これは、イチロー選手の持つ意外性が相手の投球の選択肢を狭めていることに他ならない。要するに、意外性を持つことで相手の投球を制約し、自分の立場を相対的に有利にしているのである。
「打者であれ投手であれ、一流といわれる選手には監督やコーチは不要だと思われるかもしれない」と前置きしつつ、「イチローのような選手でも、年に一度や二度はどうしても抜け出せない不振に陥ることはあるし、自分では好調だと思っていても、少しずつ調子が崩れている時もある。こうした時に、選手の相談に乗ったり、雑談をすることがコーチや監督に求められる大きな役割なのだ」と言うベイラー氏ならではの「イチロー像」は示唆に富む。
審判にとっても、イチロー選手は印象深い存在だったようだ。
1991年以来、大リーグで審判を務めるブライアン・ゴーマン氏は、2005年に筆者が「イチロー選手が出場する試合で審判を務める際に苦労したことはあるか」と質問した際、「ある」と即答した。
「彼が打席に入ると、それだけでスリリングな気持ちになる」というゴーマン氏が特別なわけではない。1999年に大リーグに昇格したマーク・カールソン審判もイチロー選手を意識する発言をしている。
「彼は際どい場面でアウトとなっても平然としている。それは、もしかしたら審判に対する無言のプレッシャーかも知れない。しかし、それ以上に自分に自信のある証拠でもあるだろう」
審判にとってのイチロー選手がどのような存在であったか伺えよう。10年連続で「3割、200安打」を記録していた頃がイチロー選手の全盛期だとするなら、全盛期のイチロー選手は文字通り「審判泣かせ」の選手の一人だったに違いない。
2000年に当時のスポーツ界で最高の金額となる10年間・2億5200万ドルの契約を結び、マリナーズからテキサス・レンジャーズに移籍したアレックス・ロドリゲス選手の場合、マリナーズのホーム球場であるセーフコ・フィールドの試合では、「金で魂を売った裏切り者」「金の亡者」といった罵声を受ける場面が長らく続いた。
判定に不満を持ったロベルト・アロマー選手が、1996年9月に球審の顔に唾を吐き、97年の開幕戦から5試合の出場停止の処分に課された際は、処分が解かれた最初の試合で、激しい怒号と罵声が飛び交った。
これに対し、怪我で長期間戦線を離脱していた選手が復帰したり、無安打無得点試合を達成した場合などは、たとえ敵方の選手であっても球場内から拍手が絶えることはない。
2014年のデレック・ジーター選手(ニューヨーク・ヤンキース)や2016年のデヴィッド・オルティーズ選手(ボストン・レッドソックス)など、引退の時期を明言した名選手には、遠征先で客席から惜別の拍手が寄せられたものだった。
いわば大リーグには観客から好かれる選手と嫌われる選手がいるのだ。そして、イチロー選手は前者の代表的な存在だった。
では、イチロー選手はなぜ、観客から好かれたのか。
打席に入れば安打を、塁に出れば盗塁を期待され、その期待に応える。フェンス際の打球を捕り、三塁や本塁に正確無比な送球を行って走者を釘付けにする。そうしたプレーは確かにその日の試合の最高の見せ場の一つだった。しかし、それだけでは、優れた選手ではあっても、観客の好意を集める選手とはいえない。
大リーグの観客がイチロー選手を好意的に評価する決定的な契機となったのが、2001年5月にシアトルの小学校を訪問したときだった。「イチロー、イチロー」と声をかける小学生の中に入ったイチロー選手に、一人の少年が抱きついた様子がシアトルの地元テレビ局のニュース番組で放映されたのだ。
この光景をみて、人びとはイチロー選手が子どもにも好かれる、心優しい選手であることを実感した。
大リーグに限らず、米国のスポーツ界では「子どもに好かれる選手は立派な選手」という考えが根強い。子どもたちが興奮しながら歓声をあげる姿は、イチロー選手が野球選手としても一人の人間としても、優れた存在であることを示したのだ。
さらに、“Laser Beam”、“Area 51”、“Wizard”あどの「あだ名」を与えられたことも、イチロー選手が米国的な価値観と合致したことを物語る。
ある選手があだ名を与えられるためには、成績が優れているだけでは足りない。他の選手と異なる特徴を兼ね備えている必要がある。
左足を高く上げる(ホアン・マリシャル)、左足を額につくまで引き寄せる(ノーラン・ライアン)といった投球や、バットの下部を頭上に掲げてバットの先端を投手に向ける(フリオ・フランコ)、両足を広げて腰を深く下ろす(ジェフ・バグウェル)といった打法も、大リーグでは個性として広く受け入れられている。
イチロー選手もまた、
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