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大石芳野が撮る、声なき人々の終わりなき戦争・中

民族・宗派・宗教の対立/大石芳野写真展「戦禍の記憶」が開幕

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

米軍は「誤爆」と発表したが、付近一帯の住宅が破壊され、死傷者がでた。ここに遊ぶ子どもたちも「もの凄い爆音だった」(アフガニスタン・カンダハル州、2003年)©Yoshino Oishi
米軍は「誤爆」と発表したが、付近一帯の住宅が破壊され、死傷者がでた。ここに遊ぶ子どもたちも「もの凄い爆音だった」(アフガニスタン・カンダハル州、2003年)©Yoshino Oishi

 「声なき人びとの、終わりなき戦争」を撮った大石芳野写真展「戦禍の記憶」が、東京・恵比寿の東京都写真美術館で開催され、話題になっている(5月12日まで)。大石は40年間にわたって世界各地の戦争の傷痕にレンズを向けてきた。

 「メコンの嘆き」(上)、「民族・宗派・宗教の対立」(中)、「アジア・太平洋戦争の残像」(下)を柱に、3回に分けて紹介する。

人も大地も疲弊しきった戦乱のアフガニスタン

 1989年秋、東西ドイツの「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦が終わった。世界の多くの人びとは、自由を謳歌(おうか)できるバラ色の時代が来るのではないかと期待した。しかし、現実はそうはならなかった。世界各地で民族紛争が噴出、凄惨(せいさん)な殺戮(さつりく)が繰り返された。

 「民族・宗派・宗教の対立」では、部族間の内戦がつづくアフガニスタン、セルビア武装勢力による「民族浄化」作戦が繰り広げられたバルカン半島のコソボ、埋蔵資源をめぐって民族が対立するアフリカのスーダンに焦点をあてた。さらに、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の犠牲者にも迫る。

 大石は土門拳賞を受賞後、2002年に初めてアフガニスタンの首都カブールを訪れた。「街は破壊され、まるで古代の遺跡群のなかを歩いているかのような錯覚に陥りました」。人影もまばらで、長期にわたる戦乱の痕跡をまざまざと見つけられた。

 2001年9月11日、米国で同時多発テロが勃発。米軍は首謀者が潜むとされるアフガニスタンを攻撃、いまでも戦争状態がつづいている。1979年に旧ソ連軍が侵攻、10年間もの激しい戦闘があり、撤退後は民族間による内戦に突入。終わることのない戦争で、人びとも大地も疲弊しきっていた。

ラサー(28、前列右)はタリバンに村を襲撃され、逃げるときに夫が銃で殺された。姑や姪たちと破壊された我が家で途方に暮れる(アフガニスタン・カブール、2002年)©Yoshino Oishiラサー(28、前列右)はタリバンに村を襲撃され、逃げるときに夫が銃で殺された。姑や姪たちと破壊された我が家で途方に暮れる(アフガニスタン・カブール、2002年)©Yoshino Oishi

 瓦礫となった我が家にたたずむ4人の女性を撮影した1枚がある。その打ちひしがれた表情から戦争の惨(むご)たらしさが如実に伝わる。ラサー(28)は、イスラム原理主義のタリバンに村を襲撃され、夫が銃殺された。「突然のことだった。これから先、子ども7人とどうしよう」と嘆く。

 「夫が生きていたら、どうにかなるかもしれない。イスラム社会では女性は生きづらい。未亡人は兄弟のメイドなどになり、なんとか生き抜くしかない。親戚とはいえ子どもは差別されることになる。やむを得ず売春をする女性もいます」と大石はその厳しさを語る。

「子どもの手伝いをしなければならない」

 カブールの路上で暗い目をしたオミッド(10)に出会った。「学校に行っているの?」と尋ねると、首を横に振って逃げていった。彼の友人によると、父親が戦死し、学校に通えないそうだ。オミッドの家を訪ねて話すと、「学校に行きたい」という。アフガンでは学費は無料なので、一緒に市場に行き、教科書やノート、カバン、服など必要なものを買ってプレゼントした。

オミッド(10)の父親は戦死し、貧しさゆえに学校に通えない。パチンコで小鳥を捕って遊ぶ(アフガニスタン・カブール、2002年)©Yoshino Oishiオミッド(10)の父親は戦死し、貧しさゆえに学校に通えない。パチンコで小鳥を捕って遊ぶ(アフガニスタン・カブール、2002年)©Yoshino Oishi
学校に通いだしたオミッド。学校が楽しくて1日も休まない(アフガニスン・カブール、2002年)©Yoshino Oishi学校に通いだしたオミッド。学校が楽しくて1日も休まない(アフガニスン・カブール、2002年)©Yoshino Oishi

 10日ほどして再びオミッドを訪ねると、「勉強するのだから」と頭を丸刈りにし、「学校が楽しい」と見違えるように明るくなっていた。「私たちは子どもの手伝いをしなければならない」と、そのとき強く思った。

パグリ(9)は「人形の服、わたしが作ったの。学校に通えるようになってうれしい」と微笑む(アフガニスタン・カブール、2002年)©Yoshino Oishiパグリ(9)は「人形の服、わたしが作ったの。学校に通えるようになってうれしい」と微笑む(アフガニスタン・カブール、2002年)©Yoshino Oishi

7発の銃弾を浴びて家族を守ったコソボ住民

 東西冷戦の終結後、多民族国家のユーゴスラビアが解体し、過酷な民族紛争を繰り広げた。セルビア軍やセルビア武装勢力が1990年代末期、アルバニア系コソボの人びとを攻撃。住民は難民となって隣国に逃げ込んだ。

 大石はこの映像をテレビで見たとき、それまで取材してきたインドシナなどの難民の姿と重なり、眠れなくなった。「眠れないなら行くしかない。コソボとは何の関係もありませんでしたが、難民キャンプがあるマケドニアに向かいました」。

 ラビノト(13)はテントの片隅で絵を何枚も描いていた。セルビア武装勢力が家を急襲する恐怖の絵ばかりだった。「毎晩、夢にうなされる。……可愛がっていた山羊が心配」と消え入るような声で話した。

セルビア武装勢力に襲われたラビノト(13)はテントの片隅で、心の傷を癒やそうとするかのように絵を描く(マケドニアの難民キャンプ、1999年)©Yoshino Oishi
セルビア武装勢力に襲われたラビノト(13)はテントの片隅で、心の傷を癒やそうとするかのように絵を描く(マケドニアの難民キャンプ、1999年)©Yoshino Oishi

 NATO(北大西洋条約機構)軍の人道的介入によるセルビア武装勢力への空爆後、難民の帰還がはじまり、2000年にコソボを訪問。小学校に行き、「家族を殺された人はいますか?」と尋ねると、何人もの手が挙がった。ヴァドゥリン(9)は「父が眼の前で殺された」と打ち明けると、大粒の涙を流した。

 両親と弟と妹の5人家族だった。ある日、セルビア兵が一家を襲った。父は

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