大石芳野が撮る、声なき人々の終わりなき戦争・中
民族・宗派・宗教の対立/大石芳野写真展「戦禍の記憶」が開幕
徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)
「子どもの手伝いをしなければならない」
カブールの路上で暗い目をしたオミッド(10)に出会った。「学校に行っているの?」と尋ねると、首を横に振って逃げていった。彼の友人によると、父親が戦死し、学校に通えないそうだ。オミッドの家を訪ねて話すと、「学校に行きたい」という。アフガンでは学費は無料なので、一緒に市場に行き、教科書やノート、カバン、服など必要なものを買ってプレゼントした。

オミッド(10)の父親は戦死し、貧しさゆえに学校に通えない。パチンコで小鳥を捕って遊ぶ(アフガニスタン・カブール、2002年)©Yoshino Oishi

学校に通いだしたオミッド。学校が楽しくて1日も休まない(アフガニスン・カブール、2002年)©Yoshino Oishi
10日ほどして再びオミッドを訪ねると、「勉強するのだから」と頭を丸刈りにし、「学校が楽しい」と見違えるように明るくなっていた。「私たちは子どもの手伝いをしなければならない」と、そのとき強く思った。

パグリ(9)は「人形の服、わたしが作ったの。学校に通えるようになってうれしい」と微笑む(アフガニスタン・カブール、2002年)©Yoshino Oishi
7発の銃弾を浴びて家族を守ったコソボ住民
東西冷戦の終結後、多民族国家のユーゴスラビアが解体し、過酷な民族紛争を繰り広げた。セルビア軍やセルビア武装勢力が1990年代末期、アルバニア系コソボの人びとを攻撃。住民は難民となって隣国に逃げ込んだ。
大石はこの映像をテレビで見たとき、それまで取材してきたインドシナなどの難民の姿と重なり、眠れなくなった。「眠れないなら行くしかない。コソボとは何の関係もありませんでしたが、難民キャンプがあるマケドニアに向かいました」。
ラビノト(13)はテントの片隅で絵を何枚も描いていた。セルビア武装勢力が家を急襲する恐怖の絵ばかりだった。「毎晩、夢にうなされる。……可愛がっていた山羊が心配」と消え入るような声で話した。

セルビア武装勢力に襲われたラビノト(13)はテントの片隅で、心の傷を癒やそうとするかのように絵を描く(マケドニアの難民キャンプ、1999年)©Yoshino Oishi
NATO(北大西洋条約機構)軍の人道的介入によるセルビア武装勢力への空爆後、難民の帰還がはじまり、2000年にコソボを訪問。小学校に行き、「家族を殺された人はいますか?」と尋ねると、何人もの手が挙がった。ヴァドゥリン(9)は「父が眼の前で殺された」と打ち明けると、大粒の涙を流した。
両親と弟と妹の5人家族だった。ある日、セルビア兵が一家を襲った。父は
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