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大石芳野が撮る、声なき人々の終わりなき戦争・下

アジア・太平洋戦争の残像/大石芳野写真展「戦禍の記憶」が開幕

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

清水ツルコの被爆した指は、右3本と左2本しか使えない。半分に曲がったままの指を使い、和裁で生計をたてて幼い息子と弟を育てた(広島、1984年)©Yoshino Oishi清水ツルコの被爆した指は、右3本と左2本しか使えない。半分に曲がったままの指を使い、和裁で生計をたてて幼い息子と弟を育てた(広島、1984年)©Yoshino Oishi

 「声なき人びとの、終わりなき戦争」を撮った大石芳野写真展「戦禍の記憶」が、東京・恵比寿の東京都写真美術館で開催、注目されている(5月12日まで)。大石は40年間にわたって世界各地の戦争の傷痕にレンズを向けてきた。

 「メコンの嘆き」(上)、「民族・宗派・宗教の対立」(中)、「アジア・太平洋戦争の残像」(下)を柱に、3回に分けて紹介する。

被爆から40年後の広島にレンズを向けて

 1931年9月、満州(中国東北部)に駐留する日本軍の謀略によって柳条湖事件が起こり、満州事変の発端となった。この事変によって軍部による中国侵略が本格化し、日中戦争や太平洋戦争が勃発、日本は破局へと突き進むことになる。そして行き着いた先が、米軍による広島、長崎への原爆投下、たった2発の爆弾で21万人(45年12月までの死亡者)もの尊い命が失われた。

 「アジア・太平洋戦争の残像」では、広島と長崎における原爆被害、激しい地上戦が繰り広げられた沖縄戦の後遺症にフォーカスをあてる。さらに、生物化学兵器の研究機関「731部隊」の犠牲者、戦後も中国残留を余儀なくされた邦人女性、朝鮮人慰安婦を追う。

 大石は被爆から約40年がたった1984年から広島にレンズを向けるようになった。「広島は土門拳さん(58年に写真集『ヒロシマ』を出版)の仕事で完結していると思っていた。しかし、あるとき『被爆したときはそれは辛かったけど、その後がもっと辛かった』という言葉を聞き、ハッとした。視点を変えて『かれらのいま』を撮るべきではないか」と考え、10年以上にわたって広島に通うことになった。

清水ツルコ。背後の箪笥は彼女が17歳のときから波乱の人生を見てきた(広島、1994年)©Yoshino Oishi清水ツルコ。背後の箪笥は彼女が17歳のときから波乱の人生を見てきた(広島、1994年)©Yoshino Oishi

 清水ツルコ(1911年生)は45年8月6日、爆心地から1.5㎞の竹屋町で被爆。隣組の作業で、延焼防止のために取り壊した建物の片付けを母親としていた。ピカッの瞬間、うつぶせに倒れ、上半身の皮膚がすべて剝(む)ける大火傷(おおやけど)を負った。

 1984年6月、清水にはじめて会ったとき、シュミーズの紐(ひも)の線が跡になって、まだくっきりと残っていた。被爆者を取材するという重圧に押し潰されそうになったとき、交流をつづけた清水の存在が大石を奮起させることになった。やがて「ヒロシマのおかあさん」ともいえる人になった。

山岡ミチコ(1930年生)は、女学校から学徒動員で西電話局へ向かう途中、爆心地から800mの三川町の路上で被爆。3歳で父を亡くした母子家庭だったが、母親も被爆した(広島、1985年)©Yoshino Oishi山岡ミチコ(1930年生)は、女学校から学徒動員で西電話局へ向かう途中、爆心地から800mの三川町の路上で被爆。3歳で父を亡くした母子家庭だったが、母親も被爆した(広島、1985年)©Yoshino Oishi

 「多くの被爆者たちは、一番苦しんだことや、辛かったこととして『差別』をあげる。『うつる』『遺伝する』という噂(うわさ)がまことしやかに囁(ささや)かれた。薬不足から被爆者の傷口にはたくさんのウジ虫がわき、『臭い』『汚い』という声は、被爆者を排斥する方向に動いていきました」と大石は語る。

20年以上にわたり長崎の被爆者に向き合う

原爆ドーム(広島、1984年)©Yoshino Oishi原爆ドーム(広島、1984年)©Yoshino Oishi

 被爆者の高齢化が進み、鬼籍にはいる人たちも増えるなか、「同時代を生きるものとして、被爆者の姿を伝え残したい」と思った。大石は広島の取材が一段落すると、1997年から20年以上の長きにわたり長崎の被爆者と向き合った。

被爆した峰徹(左)と弟の木口久(長崎、2015年)©Yoshino Oishi被爆した峰徹(左)と弟の木口久(長崎、2015年)©Yoshino Oishi

 2人の男性が肩を組んで立つ。顔はよく似ているが、ひとりは白髪で、もうひとりは黒い髪をしている。峰徹(1936年生)と木口久(1939年生)兄弟だ。45年8月9日、爆心地から2.5㎞の平戸小屋町の自宅で被爆。病死した父にかわって5人の子を育てる母は、外出先から戻ってこなかった。

 孤児となった兄弟たちはバラバラに養子として引き取られたため、姓が異なる。姉は原爆差別や虐待で自殺同然の死を遂げた。一家は代々キリスト教徒だ。2人とも結婚して子どもも孫もいる。「いまも世界では紛争が絶えないが、私たちのような子どもはもういらない」と口を揃(そろ)える。

被爆した深堀悟(長崎、2015年)©Yoshino Oishi被爆した深堀悟(長崎、2015年)©Yoshino Oishi

 深堀悟(1933年生)は、7人兄弟のうちの5人と母と祖母が原爆で亡くなった。爆心地から1.5㎞の叔母の家で、上半身裸になって柿の木に登っていた。B29の爆音が聞こえ、駆け込んだ縁側で被爆、大火傷を負った。弟と妹は爆心地の山里小学校の防空壕(ぼうくうごう)で亡くなる。

 戦後、浮浪児となり、「人とネコとネズミ以外は何でも食べた」と、壮絶な体験を語る。「ケロイドがうつるから向こうに行け」と言われ、傷ついたことも。「キリシタンの先祖も『浦上四番崩れ(江戸末期から明治初期の弾圧事件)』の旅に出されたが、『私は五番崩れの原爆で苦しんでいる』」。被爆者の妻との間に子どもと孫がいる。

山川剛(1936年生)と妻・富佐子(1942年生)。剛は自宅防空壕の脇で熱線を浴びて火傷。小学校の教員になり、平和と戦争を考える教育をつづけた。富佐子は自宅で被爆。小学校給食の栄養士になり、夫と出会う。子ども2人、孫3人。(長崎、2015年)©Yoshino Oishi山川剛(1936年生)と妻・富佐子(1942年生)。剛は自宅防空壕の脇で熱線を浴びて火傷。小学校の教員になり、平和と戦争を考える教育をつづけた。富佐子は自宅で被爆。小学校給食の栄養士になり、夫と出会う。子ども2人、孫3人。(長崎、2015年)©Yoshino Oishi

 「『怒り』のヒロシマ、『祈り』のナガサキ」といわれることがある。大石はこの3月、写真集『長崎の痕(きずあと)』(藤原書店)を出版した。130人もの被爆者を取材したもので、ずしりと重い。「戦後70年以上にわたり、想像を絶する心身の傷を抱いてきた被爆者たち。その記憶に向き合い、失われた命に眼を凝らしてきました」。

被爆したマリア像。かつてカトリック浦上天主堂の祭壇にあった木製の聖母像。この像のモデルはムリーリョ作『無原罪の御宿り』と伝えられる(長崎、1998年)©Yoshino Oishi被爆したマリア像。かつてカトリック浦上天主堂の祭壇にあった木製の聖母像。この像のモデルはムリーリョ作『無原罪の御宿り』と伝えられる(長崎、1998年)©Yoshino Oishi

住民を巻き込んだ非人間的な沖縄戦

 沖縄の取材を本土復帰後の1972年から今日まで息長くつづけている。狭い沖縄に日本全土の7割以上の米軍基地が集中。米軍普天間飛行場の名護市辺野古沖への移転計画をめぐり、推進派と反対派の対立が激化する。「終わっていない戦争がまだ随所に残っているだろうけれど、その最大が沖縄だろうか。沖縄にはまさに現在進行形で激しかった沖縄戦の影が色濃く残っています」。

壕のなかで亡くなった妹の頭蓋骨を発見。涙を流す崎山キク(沖縄・伊江島、1984年)©Yoshino Oishi壕のなかで亡くなった妹の頭蓋骨を発見。涙を流す崎山キク(沖縄・伊江島、1984年)©Yoshino Oishi

 太平洋戦争末期の沖縄戦で、住民を含む4人に1人が死亡したとされる。老女が泣きじゃくりながら頭蓋骨(ずがいこつ)を撫(な)でまわす。こんな衝撃的な光景を撮った1枚がある。崎山キク(1918年生)は、飛行場をめぐって大規模な戦闘があった伊江島で壕に潜んでいたが、姉妹と弟、いとこたち6人を失った。

 それから39年後のことだ。

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