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大石芳野が撮る、声なき人々の終わりなき戦争・下

アジア・太平洋戦争の残像/大石芳野写真展「戦禍の記憶」が開幕

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授

20年以上にわたり長崎の被爆者に向き合う

原爆ドーム(広島、1984年)©Yoshino Oishi拡大原爆ドーム(広島、1984年)©Yoshino Oishi

 被爆者の高齢化が進み、鬼籍にはいる人たちも増えるなか、「同時代を生きるものとして、被爆者の姿を伝え残したい」と思った。大石は広島の取材が一段落すると、1997年から20年以上の長きにわたり長崎の被爆者と向き合った。

被爆した峰徹(左)と弟の木口久(長崎、2015年)©Yoshino Oishi拡大被爆した峰徹(左)と弟の木口久(長崎、2015年)©Yoshino Oishi

 2人の男性が肩を組んで立つ。顔はよく似ているが、ひとりは白髪で、もうひとりは黒い髪をしている。峰徹(1936年生)と木口久(1939年生)兄弟だ。45年8月9日、爆心地から2.5㎞の平戸小屋町の自宅で被爆。病死した父にかわって5人の子を育てる母は、外出先から戻ってこなかった。

 孤児となった兄弟たちはバラバラに養子として引き取られたため、姓が異なる。姉は原爆差別や虐待で自殺同然の死を遂げた。一家は代々キリスト教徒だ。2人とも結婚して子どもも孫もいる。「いまも世界では紛争が絶えないが、私たちのような子どもはもういらない」と口を揃(そろ)える。

被爆した深堀悟(長崎、2015年)©Yoshino Oishi拡大被爆した深堀悟(長崎、2015年)©Yoshino Oishi

 深堀悟(1933年生)は、7人兄弟のうちの5人と母と祖母が原爆で亡くなった。爆心地から1.5㎞の叔母の家で、上半身裸になって柿の木に登っていた。B29の爆音が聞こえ、駆け込んだ縁側で被爆、大火傷を負った。弟と妹は爆心地の山里小学校の防空壕(ぼうくうごう)で亡くなる。

 戦後、浮浪児となり、「人とネコとネズミ以外は何でも食べた」と、壮絶な体験を語る。「ケロイドがうつるから向こうに行け」と言われ、傷ついたことも。「キリシタンの先祖も『浦上四番崩れ(江戸末期から明治初期の弾圧事件)』の旅に出されたが、『私は五番崩れの原爆で苦しんでいる』」。被爆者の妻との間に子どもと孫がいる。

山川剛(1936年生)と妻・富佐子(1942年生)。剛は自宅防空壕の脇で熱線を浴びて火傷。小学校の教員になり、平和と戦争を考える教育をつづけた。富佐子は自宅で被爆。小学校給食の栄養士になり、夫と出会う。子ども2人、孫3人。(長崎、2015年)©Yoshino Oishi拡大山川剛(1936年生)と妻・富佐子(1942年生)。剛は自宅防空壕の脇で熱線を浴びて火傷。小学校の教員になり、平和と戦争を考える教育をつづけた。富佐子は自宅で被爆。小学校給食の栄養士になり、夫と出会う。子ども2人、孫3人。(長崎、2015年)©Yoshino Oishi

 「『怒り』のヒロシマ、『祈り』のナガサキ」といわれることがある。大石はこの3月、写真集『長崎の痕(きずあと)』(藤原書店)を出版した。130人もの被爆者を取材したもので、ずしりと重い。「戦後70年以上にわたり、想像を絶する心身の傷を抱いてきた被爆者たち。その記憶に向き合い、失われた命に眼を凝らしてきました」。

被爆したマリア像。かつてカトリック浦上天主堂の祭壇にあった木製の聖母像。この像のモデルはムリーリョ作『無原罪の御宿り』と伝えられる(長崎、1998年)©Yoshino Oishi拡大被爆したマリア像。かつてカトリック浦上天主堂の祭壇にあった木製の聖母像。この像のモデルはムリーリョ作『無原罪の御宿り』と伝えられる(長崎、1998年)©Yoshino Oishi

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筆者

徳山喜雄

徳山喜雄(とくやま・よしお) ジャーナリスト、立正大学教授

1984年朝日新聞入社。写真部次長、「AERA」フォト・ディレクターなどを経て、2016年に退社。新聞社では東欧革命や旧ソ連邦の崩壊など共産圏を取材。17年から現職。著書に『新聞の嘘を見抜く』(平凡社新書)、『安倍官邸と新聞』(集英社新書)など。

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