2019年04月03日
さいたまスーパーアリーナで行われたフィギュアスケート世界選手権の男子表彰式で、ネイサン・チェン(アメリカ)、羽生結弦、ヴィンセント・ジョー(アメリカ)の3人がメダルを首にかけてポーズをとった。
今回初めて世界選手権の表彰台に到達した18歳のジョーは、嬉しくてたまらないという笑顔を見せている。
この初々しい表情を、私たちは2012年に見ている。ニース世界選手権で3位に入り、17歳と3カ月で初めて世界選手権の表彰台に上がった羽生結弦の笑顔である。まだ幼さの残る、ちょっと照れたような笑顔だった。
あれから、7年の歳月が流れた。たった7年というべきか。もう7年というべきか。一つ確かなのは、この7年の間に羽生結弦というスケーターが成し遂げたことは、おそらく誰もの想像を超えていたことだ。
2012年10月に開催されたスケートアメリカのSPで、羽生が自身初めての世界新、95.07を出したときのことはよく覚えている。
ジェフリー・バトル振付の「パリの散歩道」で、開いた両足の片足を伸ばし、ブレードのかかとの部分を氷につけた動きが羽生のトレードマークとなった、記念すべきプログラムだった。この大会のSPで、「どうしてこのような高得点が出せたと思うか」と聞かれると、羽生はあっさりとこう答えた。「今年からルールが変わったので、難しいジャンプエレメンツを後半に二つ持っていきました」。
このシーズンから、それまでのフリーに加えてSPでも後半で跳んだジャンプのポイントが1割増しとなったのだった。
この大会ではフリーでいくつかミスが出て結局総合2位になった。1位は小塚崇彦、3位は町田樹で、このスケートアメリカは現在に至るまで海外のGP(グランプリシリーズ)戦で唯一、日本男子が表彰台を独占した大会である。
フリーで失敗した原因を、「追いかける立場から、追われる立場になったということではないですか?」、そう聞くと、「そうかもしれないですね。世界で3番に入ったというプレッシャーというのも、こういうことなのかと思います」と言って頷いた。
その1カ月後、羽生は故郷の仙台郊外で開催されたNHK杯で再びSPで世界最高スコアを更新させて、初のGPタイトルを手に入れた。
翌シーズンは福岡のGPファイナルでやはりSPで世界新を出して優勝。ソチオリンピックでもSPで4度目の世界新を更新して、金メダルを手にした。こうして名実ともに「追われる立場」のスケーターになったのである。
2度のオリンピック金、2度の世界選手権優勝、4度のGPファイナルタイトルと4度の全日本タイトル……羽生の業績を追っていくと、数字とメダルの数だけで1本のコラムの文字数が終わってしまう。
だがそれには、大きな代償がついてまわった。人間の身体の
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