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羽生結弦はリスクを承知で、4アクセルに挑戦する

田村明子 ノンフィクションライター、翻訳家

表彰式で記念写真に納まる(左から)羽生結弦、ネーサン・チェン、ビンセント・ゾウ拡大世界選手権の表彰式で記念写真に納まる(左から)羽生結弦、ネイサン・チェン、ビンセント・ジョー

 さいたまスーパーアリーナで行われたフィギュアスケート世界選手権の男子表彰式で、ネイサン・チェン(アメリカ)、羽生結弦、ヴィンセント・ジョー(アメリカ)の3人がメダルを首にかけてポーズをとった。

 今回初めて世界選手権の表彰台に到達した18歳のジョーは、嬉しくてたまらないという笑顔を見せている。

 この初々しい表情を、私たちは2012年に見ている。ニース世界選手権で3位に入り、17歳と3カ月で初めて世界選手権の表彰台に上がった羽生結弦の笑顔である。まだ幼さの残る、ちょっと照れたような笑顔だった。

 あれから、7年の歳月が流れた。たった7年というべきか。もう7年というべきか。一つ確かなのは、この7年の間に羽生結弦というスケーターが成し遂げたことは、おそらく誰もの想像を超えていたことだ。

初の世界新記録

 2012年10月に開催されたスケートアメリカのSPで、羽生が自身初めての世界新、95.07を出したときのことはよく覚えている。

 ジェフリー・バトル振付の「パリの散歩道」で、開いた両足の片足を伸ばし、ブレードのかかとの部分を氷につけた動きが羽生のトレードマークとなった、記念すべきプログラムだった。この大会のSPで、「どうしてこのような高得点が出せたと思うか」と聞かれると、羽生はあっさりとこう答えた。「今年からルールが変わったので、難しいジャンプエレメンツを後半に二つ持っていきました」。

 このシーズンから、それまでのフリーに加えてSPでも後半で跳んだジャンプのポイントが1割増しとなったのだった。

 この大会ではフリーでいくつかミスが出て結局総合2位になった。1位は小塚崇彦、3位は町田樹で、このスケートアメリカは現在に至るまで海外のGP(グランプリシリーズ)戦で唯一、日本男子が表彰台を独占した大会である。

 フリーで失敗した原因を、「追いかける立場から、追われる立場になったということではないですか?」、そう聞くと、「そうかもしれないですね。世界で3番に入ったというプレッシャーというのも、こういうことなのかと思います」と言って頷いた。

 その1カ月後、羽生は故郷の仙台郊外で開催されたNHK杯で再びSPで世界最高スコアを更新させて、初のGPタイトルを手に入れた。

 翌シーズンは福岡のGPファイナルでやはりSPで世界新を出して優勝。ソチオリンピックでもSPで4度目の世界新を更新して、金メダルを手にした。こうして名実ともに「追われる立場」のスケーターになったのである。

 2度のオリンピック金、2度の世界選手権優勝、4度のGPファイナルタイトルと4度の全日本タイトル……羽生の業績を追っていくと、数字とメダルの数だけで1本のコラムの文字数が終わってしまう。


筆者

田村明子

田村明子(たむら・あきこ) ノンフィクションライター、翻訳家

盛岡市生まれ。中学卒業後、単身でアメリカ留学。ニューヨークの美大を卒業後、出版社勤務などを経て、ニューヨークを拠点に執筆活動を始める。1993年からフィギュアスケートを取材し、98年の長野冬季五輪では運営委員を務める。著書『挑戦者たち――男子フィギュアスケート平昌五輪を超えて』(新潮社)で、2018年度ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。ほかに『パーフェクトプログラム――日本フィギュアスケート史上最大の挑戦』、『銀盤の軌跡――フィギュアスケート日本 ソチ五輪への道』(ともに新潮社)などスケート関係のほか、『聞き上手の英会話――英語がニガテでもうまくいく!』(KADOKAWA)、『ニューヨーカーに学ぶ軽く見られない英語』(朝日新書)など英会話の著書、訳書多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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