記者は「国民の代表」の役割を果たしているのか
溶解する権力と報道の境界、「令和」時代に「平成」の轍を踏むな
徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)
新しい元号「令和」が発表された。まもなく「平成」が終わるが、近年の新聞や放送といった既存マスメディアが権力と癒着するかのような報道に、危機感を抱いている読者や視聴者は多いのではないか。
記者が「国民の代表」として取材をしていた時代は、平成とともに終わりを告げるのだろうか。
「記者は国民の代表とする根拠を示せ」と迫る首相官邸

記者会見する菅義偉官房長官=2019年3月7日
「あなたに答える必要はない」「取材じゃない。決め打ち」
一昨年から延々とつづく、記者会見での質問をめぐっての菅義偉官房長官と東京新聞記者とのある種の確執は、意地の張り合いにもみえなくはなく、私は当初あまり気にかけていなかった。
ところが、この問題で東京新聞は2月20日朝刊に「検証と見解」とする特集記事を掲載。2017年8月から今年1月までの間に、首相官邸から「事実に基づかない質問は慎んでほしい」などとする文書での申し入れが9回にわたってあったとし、その内容と回答を明らかにした。
9回とは、官邸もマメに文書をだしたものだ。ストーカーさながらだなと思いながら、特集記事に目を通した。官邸からの6回目の申し入れと東京新聞の回答をみて、青くなった。いま、ジャーナリズムが直面している、もっとも考えなければならない重大な問題のひとつが、さらりと書かれているのである。
次のような内容だ。
昨年6月の官房長官記者会見で、東京新聞記者が、森友学園の国有地売却をめぐる文書改竄問題にからみ「メモがあるかどうか調査していただきたい」と求めたことに対し、官邸から「質問ではなく要請。会見でそのような要請ができると考えるのか」と文書で質問があった。
東京新聞が「記者は読者、国民の代表として質問に臨んでいる。会見の場で調査を求めるのは問題ない」と答えると、「国民の代表とは選挙で選ばれた国会議員。貴社は民間企業であり、会見に出る記者は貴社内の人事で定められている」との反論があった。
ありていにいえば、官邸が「記者は国民の代表とする根拠を示せ」と迫ったのである。これに対し、東京新聞は「会見に出る記者は憲法21条に基づく国民の知る権利の負託を受けている」と回答した。
このやり取りをみていると、官邸の方が無茶苦茶な理屈で難癖をつけているようにみえなくもない。記者が会見で質問することは、憲法で保障された当然の権利である。これが否定されるのなら、民主主義の土台が崩れていくことになる。
ただ、私がこの官邸側の発言にただならぬものを感じたのは、官邸は報道や言論の自由を否定しているのではなく、「あなた方は本当に国民の代表なのか? 果たして国民はそう思っているのか?」という根源的な問いを突きつけたことである。
官邸がそれほど深く考えて問いかけたのではないかもしれない。しかし、東京新聞の「記者は国民の代表として質問に臨んでいる」との回答は、教科書的には正しいかもしれないが、国民は本当に昨今のマスメディアに対し、「国民の代表」と認めて「知る権利を負託している」と言い切れるのだろうか。