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「令和」の象徴天皇像への模索

国民とともに考える皇室報道

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

雲仙・普賢岳の噴火による避難所でひざをつき、避難住民の話をお聞きになる天皇、皇后両陛下=1991年7月10日、長崎県島原市

 東京都内の百貨店で「天皇皇后両陛下 ともに歩まれた60年」と題された写真展をみた(注)。ご成婚にはじまり現在の姿まで、両陛下の歩んだ長い道のりを振り返ることができた。

 1枚の目を引く写真があった。即位3年目の1991年6月3日に雲仙・普賢岳が噴火、大規模火砕流が発生し多数の犠牲者が出るなか、天皇皇后両陛下は被災地の長崎県島原市を7月に訪問。天皇はネクタイをはずして白いカッターシャツの腕まくりをし、避難所の堅い床に膝をついて被災者一人ひとりにお見舞いをされた。

 これまでの天皇では考えられない姿で、国民との距離が一挙に縮まる印象深い光景だった。以降、国民が災害に傷つけられるたびにこの姿勢は貫かれ、皇室全体にも踏襲されていった。

 政府は4月1日の臨時閣議で、「平成」に代わる新たな元号を「令和(れいわ)」と決定。典拠は日本に現存する最古の歌集「万葉集」にある漢文で、初めて和書から引用された。

 新元号は、菅義偉官房長官が首相官邸で記者会見し、「令和」と記した墨書を掲げて発表した。元号を改める政令は天皇陛下が署名し即日交付、皇太子さまが新天皇に即位する5月1日に施行される。

 前回は1989年1月に昭和天皇が逝去し、新たな元号「平成」は今回と同様に官房長官だった小渕恵三氏が発表した。当時、全国紙の写真記者だった私はこのときの様子を首相官邸で撮影しており、「あれから30年もたったのか」と思いだされた。

 そのときは生前退位ではなく、天皇死去に伴うもので重苦しい空気が日本全体を覆い、今回の新元号発表とは街の雰囲気もずいぶんと違うものだった。自粛のため、夜の銀座が真っ暗だったことも鮮明に覚えている。

(注)写真展「天皇皇后両陛下 ともに歩まれた60年」巡回スケジュール(入場無料)
・東急百貨店吉祥寺店 4月4日~14日
・静岡伊勢丹 4月10日~15日
・大丸京都店 4月17日~30日
・東武宇都宮百貨店 4月18日~29日
・札幌三越 4月18日~29日

被災地への「慰問の旅」が共感呼ぶ

 平成がはじまった1989年は、ベルリンの壁が崩壊、東西冷戦が終結することとなった。まもなく日本ではバブル経済が破綻、長い低迷期に突入する。阪神大震災や新潟県中越地震、東日本大震災など大規模な自然災害が、繰り返し日本を襲ったのも平成時代であった。

 平成最後となる「歌会始の儀」が1月16日、皇居・宮殿で開かれた。今年の題は「光」。陛下は、阪神大震災の復興のシンボルとして各地に広まった「はるかのひまわり」に思いを寄せ、「贈られしひまわりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」との歌を詠まれた。

 小学校6年生の加藤はるかさんは神戸市東灘区の自宅が震災で倒壊し、犠牲となった。その年の夏、はるかさんが小鳥に与えていたヒマワリの種が自宅跡に大輪の花を咲かせた。両陛下は震災10周年追悼式典で兵庫県を訪れた際、遺族代表の少女から贈られた「はるかのひまわり」の種を御所の庭に撒き、花が咲くと種を採っていたという。

 被災地へのすばやい「慰問の旅」と、その後の被災者への末永い思いが国民の共感を呼び、平成の象徴天皇像を身をもって示すこととなった。

激戦地への「慰霊の旅」で平和を訴え

「西太平洋戦没者の碑」を訪れ、遺族や関係者らに言葉をかける天皇、皇后両陛下=2015年4月9日、パラオ・ペリリュー島、代表撮影

 天皇は平和への思いにも繰り返し言及。沖縄や硫黄島をはじめとする先の大戦の戦地への「慰霊の旅」を続けた。サイパンやフィリピンなど海外の激戦地へも高齢をおして頻繁に出かけられた。戦後70年にあたる2015年4月、両陛下は多数の犠牲者を出したパラオのペリリュー島を訪れ、「西太平洋戦没者の碑」に日本から運んだ白菊を供え、深々と頭を垂れた。

 天皇陛下は81歳、皇后さまは80歳。強い日差しが照りつけ、気温が30度前後になるなか、集まった元日本兵や遺族らと言葉を交わした。同年8月15日、東京都千代田区の日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式で陛下は、先の大戦に対して「深い反省」という表現をはじめて使った。「戦争を決して忘れてはならない」と、ここでも積極的に示すこととなった。

 2月24日に国立劇場(東京・千代田区)で催された天皇陛下在位30年記念式典で、沖縄出身の歌手三浦大知が「歌声の響(ひびき)」を独唱。歌詞は「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る(『だんじゅかりゆし』の歌声の響きと、それを歌って見送ってくれた人々の笑顔が今も懐かしく心に残っている)」などの「琉歌(りゅうか)」で、陛下が沖縄初訪問後に読まれたものだった。

 沖縄地方の言葉による琉歌は「八・八・八・六」音を基本とする歌で、三線(さんしん)の伴奏にのせて歌われる。皇太子のころから沖縄の歴史や文学を学び、琉歌もたしなむようになった。

 陛下が皇太子時代の1975年、名護市にあるハンセン病の国立療養所「沖縄愛楽園」を訪問。予定時間を大幅に上回る在園者との懇談を終えて園を後にするとき、船出の祝い歌「だんじゅかりゆし」の合唱で見送られた。この様子を詠んだ琉歌に、皇后さまが曲をつけた。

 このときの沖縄訪問は、南部戦跡の糸満市のひめゆりの塔で火炎瓶を投げつけられるという大事件が起きた。その日の夜、陛下は談話を発表。長い歳月をかけ「この地に心を寄せ続けていくほかない」と述べ、日程を変えず火炎瓶事件の翌日に沖縄愛楽園を訪れた。

 両陛下の沖縄訪問は言葉通り11回にもおよんだ。私は1993年4月、天皇としての初めての沖縄訪問に同行取材し、両陛下が沖縄県民に真摯に接する姿を間近にみている。

 陛下は自ら模索し、戦地への「慰霊の旅」と被災地への「慰問の旅」をつづけることで、平成の象徴天皇像を具現化したといえよう。こうした陛下のリベラルな姿勢とは一線を画す保守層との軋轢も生じた。

皇室報道を考えるきっかけに

 生前退位をめぐっての「お気持ち表明」報道は、2016年7月のNHKの特報からはじまり、宮内庁は8月8日に天皇のビデオメッセージを公表。82歳の天皇は高齢に伴う身体の衰えを感じ、「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなるのではないか」と懸念を表明、「生前退位の意向」を示した。

 ただ、皇室のあり方を定める皇室典範は天皇の退位を認めておらず、国政の権能を有しない天皇の発言は波紋を呼ぶことになった。天皇は10年には退位の意向を固めていたが、保守色の強い首相官邸が生前退位には消極的だった。

 こうした局面を打開するために宮内庁が背後で動き、NHKの特報を引き金とした各メディアの報道が日本を席捲することとなった。「報道機関の世論調査は退位を実現させるべきだとの意見が8割を超えた。『宮内庁のクーデターだ』。首相周辺はうめいた」(読売新聞2017年3月18日朝刊)とする生々しい舞台裏の報道が記憶に残る。

 憲法違反ぎりぎりのやりとりが政治の現場でおこなわれ、退位特例法が成立。この4月末の退位へとつながっていったのだが、新聞、放送をはじめとする皇室報道のあり方を深く考えるきっかけにもなった。

 天皇制の研究をする政治学者の原武史氏は「はっきり言っておかしいと思います。いまの憲法下で、天皇は国政に関与できないはずです。それなのに、天皇が退位の気持ちをにじませた発言をすると、急に政府が動き出し、国会でも議論を始めた」「本来は天皇を規定するはずの法が、天皇の意思で作られたり変わったりしたら、法の上に天皇が立つことになってしまう」(朝日新聞2017年3月18日朝刊)と、強いトーンで疑義を呈した。

時代に応じて求められる象徴天皇像

 今上天皇の退位後の次の天皇は、引き継ぐべきところは引き継ぎ、新たな象徴天皇像をつくっていかなければならない。5月に新天皇に即位する皇太子さまは2月23日の59歳の誕生日に先立つ記者会見で「時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたい」と述べ、皇太子さま自身の模索が始まることを示された。

 2005年の会見では新しい公務として、環境問題▽子どもと高齢者に関する事柄▽国際交流▽産業・技術面での新しい動き――という4つのテーマを挙げている。環境問題は長年の「水」をめぐっての研究で国際会議に出席したり、難民問題にも関心をもち、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の高等弁務官との交流をつづけたりもしている。

 憲法は天皇の地位を「日本国民統合の象徴」と定めるが、「象徴」についての具体的な記述は皇室典範にもみられない。変化に応じながら国民の共感を生みだすことが、新しい象徴天皇に求められている。

 5月以降の新天皇をめぐる皇室報道は、興味本位の下世話なものも含めて両陛下の一挙一動が報じられ、過熱することになろう。新たな象徴天皇像を国民とともに考えることができる皇室報道をめざしたい。