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アメトークの西成ネタを考える

「やばい」「こわい」という言説はどこから来て、どこへいくのか。

武田緑 教育コーディネーター

  4月18日に放送されたテレビ朝日の人気バラエティー番組「アメトーーク!」の最後に謝罪文が映し出された。2月に放送された「高校中退芸人」の特集についてだ。

 その特集では、芸人のソノヘンノ女・ともが、自らが通っていた大阪府立西成高校について「椅子が机と繫がっている理由は投げられないようにするため」「窓がガラス素材でない理由はガラスだと割る人が多いから」などと話した。それに続いてMCの宮迫が、西成について「行かないほうがいい地域」とコメントした。これらの発言は事実誤認・差別表現であるとして、西成高校、大阪府教育委員会、部落解放大阪府民共闘会議などから抗議があったという。(詳細はこちらの記事で)

 地元いじりや自虐ネタとして笑いにしてしまうことで、自分の過去や自分にくっついてるアイデンティティ(今回で言えば、西成高校出身であることや、高校中退組であること)を肯定し昇華しようとすることはあるだろう。私自身にも心当たりがある。彼女のスタンスは理解できるところもある。同じような環境にいた人間同士でそんな会話をして“身内トーク”として盛り上がることもあると思う。

 社会的にネガティブなイメージを持たれる属性を背負ってる人たちが、それを跳ね返そうとしたり、同様の経験を共有する人たちとの仲間意識を強めようしたりする場合に、その独特の体験や環境をユーモアと共に語ることも、よくある。

 しかし、今回はそれをテレビという公共の電波に乗せて、「西成高校」という固有名詞を出し、しかも「行かないほうがいい地域」という差別表現とともに発信してしまったわけで、やはり問題だったと言わざるを得ない。

 実際の高校名を具体的に出してしまったことは、西成高校への新たな、さらなるレッテル貼りを生み出し、生徒に実害がある。校長が異議申し立てをするのは当然だ。編集できるのだから、編集すべきだった。

 一方で、渦中にいる西成高校中退の彼女が、今どんな気持ちでいるのかも気がかりだ。

 彼女があえて具体的な高校名を出したのは、西成にくっついているマイナスイメージを逆手にとってインパクトを持たせたかったのだろう。

 キャバクラで働きながら芸人をしているという彼女にとって、西成高校ネタは多分、これまでもサバイバルツールだったのではないだろうか。

 そう思うと、非常に複雑な気持ちになってしまう。

 Twitterでは、今回の一件について、たくさんのつぶやきが書き込まれている。

 「実際やばいところじゃん」「西成でこんな事件あったんだって」「行った時怖い目にあったよ」などなど……。

 私はネット上の反応などを見ていて、もう少し、社会一般の共通理解、常識になればいいなと思ったことがあり、ここにまとめたい。

❶「社会的スティグマ」というものが差別を正当化する。

 社会によって、個人や特定の集団に対するネガティブなレッテル、烙印のことを「社会的スティグマ」と言う。西成の街や西成高校には、まさにこの社会的スティグマがへばりついていると言える。

 スティグマを背負った人たちを蔑み、差別することが正当化され、「当たり前のこと」とされていく。西成高校の生徒たちも、西成に暮らす人たちも、嫌な思いをたくさんしてきた。

 例えば、バイトの面接で履歴書を見た雇用主に眉をひそめられる。「彼氏は西成に住んでいる」というと親から「大丈夫なの?」と耳打ちされる。そんな中で、出自や母校を隠している人も少なくない。

 今回の報道はスティグマの表出であると同時に、スティグマをさらに強化するもの。「こんなの普通にOKでしょ」というスタンスは、生きづらい人を増やすことにこと他ならない。

❷貧困と差別によって困難な状況が世代を越えて連鎖する。

 差別が貧困を産み、貧困が差別を産み、負の連鎖が続いていく。

 これは図で説明する方が分かりやすいと思うので、見てもらいたい。

 貧困と差別がその人たちから機会を奪い、力を奪い、非社会化・反社会化するリスクが高まっていく。

 これは、いわばある属性の人たちの生活の実態として立ち現れた"もう一つの差別の姿"とも言えると思う。そして、実態として現れた差別は、新たな差別と偏見を産む。

 「やっぱり西成の人ってこわいじゃないか」「治安が悪いのは事実だ」「行かない方がいい」といった、まさに今回の件でTwitterに溢れているような無数の声。それがまた西成の人や西成高校の生徒をしんどい状況に追いやっていく。

 生徒に「いくら頑張っても、私ら所詮、西成高校やもん」と、言わせているのは一体誰なのか、考えてみてほしい。

 西成高校は、今"荒れている"というような状況ではないと私は認識している。また、たとえ当時"荒れて"いたとしても、それは社会的に厳しい状況に置かれている子どもたちのしんどさの表現であり、SOSでもある。これは大人でも同様で、"困った人"は実際は困っている人だ、というのは福祉や教育の世界では普通に認識されていることだと思う。

 西成高校は、そのような生徒のSOSにも、ずっと向き合ってきた学校だ。この負の連鎖に楔を打つような人権学習・反貧困学習や、生活指導や、仲間づくりをしてきた。学校自体が、強固なスティグマを背負わされながらも、子どもたちと地域の抱えるしんどさを、どうにかしようとしてきた。

 その人、その子、その家族、その地域に現れている問題は、その個人やその地域の問題でのみあると考えるのは不十分だと思う。その問題を生み出す社会的背景や社会構造を見つめたり、そこに考えを向けられる人が増えてほしい。

❸「不当な一般化」がさらなる排除を生む。

 例えば一件の自転車盗難が起きたとする。大阪市の北区で起これば「たまたま」「北区でもこんなことあるんだねえ」となることが、西成区で起これば「やっぱ西成はやばい街だ」と言われる。

 日本人が犯罪を犯しても「そういう日本人もそりゃいるよね」という話になるけれど、外国人が犯罪を犯したら「やっぱり外国人を受け入れると治安が悪化する!」というような反応になる。これを「不当な一般化」と言う。

 普通に想像できると思うが、これは、上記の社会的スティグマを負う人や集団・地域に対して、すごく起きやすい。

 割合は違うかもしれないが、どこの地域にもいろんな人がいる。どこの地域でもいろんな事件が起きる。

 Twitterには「西成でこんな事件があったんだって」とか「西成でこんな目にあった」と言う書き込みが溢れていたが、二次情報で信ぴょう性の疑わしいものもたくさんある。個人の経験を書き込んでいるものにしても、それって1回の出来事を「西成だから起きた」と不当に一般化している側面はないだろうか。

 私の友人は、先日家族旅行で西成の安宿に泊まったのだそう。地元のおっちゃんに「どこ行くねん?!」と声をかけられて、そのまま町案内をしてもらい、「気取らなくて面白い町だなぁ」と子ども共々大いに楽しんだそうだ。怖い町だという偏見を持っていたら、声をかけたられたこと自体も恐怖に感じたかもしれない。

 私たち人間は、簡単にフィルターを通して世界を見てしまうのだ。その自覚が一人ひとりに必要ではないだろうか。

踏ん張っている人がたくさんいる

 西成は確かに、しんどさを抱える人が多く暮らす地域だろう。

 でも、それを乗り越えよう、状況を変えようと頑張っている、踏ん張っている人がたくさんいる地域でもある。

 そして、

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