人の命の儚さを知った突然の死。家中サッチーだらけなのに、おまえだけがいない
2019年05月02日
野村沙知代さんが虚血性心不全で急逝したのは2017年12月8日。享年85歳だった。
「あの日は午後1時頃に起きて、お手伝いさんが作ってくれた食事をしたあと応接室でテレビを観ていた。そこへお手伝いさんが『奥様の様子がおかしいんです』と血相を変えて飛び込んできたので慌てて食堂へ行くと、サッチーが食卓に突っ伏してた。『大丈夫か』と声をかけたら、『大丈夫よ』といつもの気丈な調子で返事が返ってきたんです。でもそれが最後の言葉だったね。
そこから息を引き取るまで5分でしたよ。救急車を呼んで病院に搬送したけど、救急隊員の人ももう息をしてないと言ってたね。死んだのかと頭ではわかっても心がついていかないというか……。人の命ってこんなに儚いものかなと絶句したまま、涙も出なかった」
こう話しながら野村克也さんがしきりに弄(いじ)っていたのは左手の薬指に光る大ぶりな指輪。両家の家紋を刻み、ダイヤモンドで彩った華やかな結婚指輪は、沙知代さんのアイデアによって作られたものだという。
「この指輪を外す気はないね。同じ敷地に息子夫婦が暮らしてるけど、どうしようもなく寂しくて。妻に先立たれた男なんて憐れなもんだ。一人じゃ何もできなくて……。私がションボリしているから慰めてやろうと思うんだろうね、また結婚したらどうかって勧めてくれる人もいるけど、誰がこんな爺さんと結婚してくれるというのか……。それにサッチーの代わりはいない。50年ものあいだ片時も離れずに過ごした人だったからね」
二人が出会ったのは、野村さんが35歳にして、南海(現・ソフトバンク)の選手と監督を兼ねていた70年の8月のことだった。後楽園球場で行われた東映フライヤーズとの3連戦のために上京し、訪れた行きつけの中華料理店のママに、たまたま紹介されたのが馴れ初めだ。
「サッチーは野球には疎くて私のことも知らなかった。俺のことを知らない日本人がいるのかとビックリしましたよ(笑)。ところが私が野球選手だと知ると、息子に電話して聞いてみると言って席を外して、戻ってきた時には息子達が有名な選手だと言っているとホクホクしてた。あの時、サッチーはいい鴨を見つけたと思ったんだろうね。経済的にというより、息子達に尊敬されたいという気持ちが強かったんじゃないかな」
なによりも出会ったタイミングが絶妙だった。
「当時、私は既婚者だったけど妻とは別居中だった。妻に男ができたというので情けないやら悔しいやら。サッチーは3つ年上だったこともあって話しやすかったんだね。よせばいいのに、つい心の内を話してしまって……。こっちは傷心なうえに隙だらけだったわけで、これも『よし、イケる!』と彼女を奮い立たせた大きな要因の一つだったに違いないと、今になればわかるんだよ」
「足が綺麗で(笑)。それに英語が話せると聞いてグッときた。こっちは野球バカで勉強なんかしてないでしょう。そのせいかインテリな女性に強い憧れを抱いてた。どこで英語を覚えたの? と聞いたらコロンビア大学だと言うので感心してしまって。でもそれは嘘だった。あとで知ったことだけど、彼女はアメリカ人と結婚していた時期があったんですよ。学歴だけじゃない。私が訊いた彼女に関することは全部、嘘(うそ)でした」
すでに沙知代と名乗っていたが、本名は芳枝だった。東京出身と言っていたが、福島の農家の生まれだった。前の旦那は老舗デパートの御曹司で日本人、上の子は養護施設から引き取った、下の子は前夫とのあいだに生まれた子だと聞いていた。
「上の子のダンはどう見てもハーフだったけど、下の子のケニーは日本人の顔をしてたから信じた。どうやらサッチーはアメリカ人と結婚していたことを隠したかったんだね。でも、なぜ嘘をついたのかと尋ねたことはない。知ったところで意味のないことを詮索してもしょうがないでしょう。嘘をつかれたからといって別れようとも思わなかったね。嘘をついてまで自分と一緒になりたかったのかと思ったら、返って愛しくなりましたよ」
やがて二人が交際していることが広まり、マスコミから不倫関係だと叩かれた。
「ところがサッチーは球場に出向いては、コーチや選手をつかまえて『アンタ、もっとしっかりしなさいよ!』『アンタのせいで勝てないのよ!』などと喚き散らしていたらしい。ある日、選手達から『監督は知らないのか?』と詰め寄られて、とんでもないことをしてくれると思ったけど、私を思う彼女なりの応援だとわかっていたので叱ることはしなかった。
ついに球団の幹部達に呼び出され、仕事を取るのか、女を取るのか迫られて、『彼女を選びます』と伝えたら、みんなキョトンとしてましたよ。その時の心境? 仕事は他にもあるけど、彼女は一人しかいないと思ってた」
1973年に二人の息子である克則さんが生まれ、その5年後に前妻との離婚が成立して入籍。沙知代さんの二人の連れ子も野村さんの子供となった。
「ただし、彼女は恐妻であって悪妻ではない」と話を続けた。
「サッチーの口癖は『なんとかなるわよ』だった。ピンチの時も『何を落ち込んでるの。なんとかなるわよ』と言ってくれた。実際、なんとかなっちゃうんだよ。現役引退後も、これからどうやって食っていこうかと思ってたけど、幸い講演の依頼が途絶えることなく舞い込んできた。
とはいえ私は話し下手だから苦痛でしょうがない。文句を言うとマネージメントをしていたサッチーは『ありがたいと思いなさいよ』とか言って、仕事を減らすどころか一日に何本もの講演を引き受けてしまうんだ。俺はこいつに殺されるかも知れないなと思ったけど、おかげで田園調布に家を持てた。彼女は私の人生におけるラッキーガールだったね」
「特捜部の人に旦那が知らないわけないだろうと言われたけど、本当に寝耳に水だった。脱税額を訊いて、よくそんなに貯めたもんだと驚くばかりでね。あの時サッチーは23日間の勾留期限を経て釈放されたんです。さすがに凹んでるだろうと思ったけど、平然としていたね。強(したた)かなのか?、太々しいのかと呆れていたら、不意に『迷惑かけたわね』と。後にも先にも謝罪の言葉を聞いたのはあの時だけ。急に彼女が憐れな女に感じられて切なくなった」
脱税事件により、野村さんは1999年から務めていた阪神タイガースの監督を辞任した。
「二度も女房のせいで監督をクビになったのは、世界広しと言えども私だけだろうね。でも一度も離婚しようと思ったことはない。発想さえなかった。きっと世間の人が知りえないサッチーのいいところを知っていたからでしょう。
いつも強気で迷うことなく前へ前へと進んでいく。その生命力の強さが頼もしかった。監督って仕事は選手の長所も短所も把握してなきゃ務まらないから、そういう目で女房のことも見てたのかもしれないね」
「ベッドの中で手を握って欲しいと言われたんだよ。そんなことは初めてだったから何をおかしなことを言い出すのかと思ったけど握ってやった。こんな小さな手だったかなと感じたのを覚えてる。
ずいぶんと経ってその時のことを思い出して、サッチーは幸せだったのかなと思ったら泣けてきた。こっちは彼女のおかげで悪くない人生だったんだから、『ありがとう』と伝えればよかったとそれが心残りでね。男はなかなか言えないんだよ。でもカミサンが元気なうちに言わなくちゃ、死んだらもう伝えようがないんだよな」
4月に出版された本のタイトルも『ありがとうを言えなくて』(講談社)とした。沙知代さんの生い立ちや経歴、夫婦のこと、子供達のこと、世間を騒がせた数々の出来事の真実……。
「こんなに赤裸々に語ったのは初めてだね。供養になればと思って作った本だけど、サッチーは『アンタ、余計なことをペラペラ喋ってどういうつもり?』とか言って怒ってるかもしれないな」
野村克也(のむら・かつや)
1935年、京都府生まれ。京都府立峰山高校を卒業し、1954年にテスト生として南海ホークスに入団。現役27年にわたり捕手として活躍。歴代二位の通算657本塁打、戦後初の三冠王などの記録を持つ。70年の南海でのプレイングマネージャ―就任以来、ヤクルト、阪神、楽天の四球団で監督を歴任。ヤクルトでは三度の日本一を達成。楽天でも球団初のクライマックスシリーズ出場に導いた。
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