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生きていた民社党、保守運動をオルグする

日本会議と共闘する労働戦線は、どう作られてきたか <1>

藤生 明 朝日新聞編集委員

 国民運動団体「日本会議」。新宗教「生長の家」脱会者たちと神社本庁・神道政治連盟がタッグを組んで、憲法、教育、防衛などの課題に取り組んできたことは知られている。

 ただ、見落としてはいけない勢力がある。かつての「民社党・同盟」だ。党は1994年、同盟は87年に政界再編、労働戦線統一の渦の中に消えたが、そこにもここにも旧民社系の人がいる。それも日本会議会長だったりする。彼らはどんな経緯で、日本会議などの運動と共闘するようになったのだろうか。旧民社党・同盟の人々の今を取材し、成り立ちをさぐっていきたい。

河合栄治郎の門下生集団「社会思想研究会」

 国会そばの砂防会館で5月3日、日本会議系「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(三好達、田久保忠衛、櫻井よしこ共同代表)と「民間憲法臨調」(櫻井代表)が共催する改憲派集会があった。田久保忠衛・日本会議会長は結びのあいさつにたち、憲法改正の早期実現を呼びかけた。

 「去年の集会よりも、政治家の先生方の一歩進んだ発言が多かった。みなさま方の力が先生方をここまで動かした。最後には、日本を動かすのは我々だという決意をもちましてひとつ前進したい」

改憲派の集会であいさつする田久保忠衛・日本会議会長=2019年5月3日、東京・平河町の砂防会館、筆者撮影
 田久保氏は1956年に時事通信社に入社。ワシントン支局長、外信部長を務め、84年に杏林大学に転じた国際政治学者だ。文化人、労組幹部らが集った「民主社会主義研究会議」(民社研)の中枢で活動し、平成のはじめ、民社党新綱領づくりにも携わった。それからしばらくして、民社研が現在の「政策研究フォーラム」(理事長=谷藤悦史早大教授)に改称・組織がえした直後には常務理事に就任。機関誌『改革者』の誌面を刷新、編集・発行人を務めたこともあった。

 そもそも民社研とはどんな組織か。社会党が左右に分かれていた時代、学者らがつくった右派の応援団「民主社会主義連盟」(民社連)が源流の一つだ。社会党は統一をへて、再び分裂。西尾末広らが民社党を結成した1960年、お茶の水女子大学長を務めた政治学者、蠟山政道氏らの呼びかけで民社研は結成された。

 民社党、同盟(全日本労働総同盟)、民社研で三位一体をなした民社ブロックの一角で、前出の民社連に加え、戦時中の軍部批判、学内対立で東大教授の職を追われた自由主義者、河合栄治郎(1891—1944)の門下生集団「社会思想研究会」(社思研)のかなりの部分が合流。電力、鉄鋼といった大企業、後の同盟である全労会議系労組が賛助会員として加わった。

 田久保氏は早大法学部在学中から、河合ゼミOBらの社思研に参加している。中心メンバーの経済評論家、土屋清氏が主宰した読書会に通い、記者を志望したという。社思研、民社研、政策研究フォーラムのいずれでも活動した田久保氏は、まごうことなき旧民社系言論人と言える。

 半生記『激流世界を生きて』(2007年)で民社と自民の政治家を比べ、こう記している。「(民社党歴代委員長は)日本の政治家の水準から言えば自民党の有力政治家よりもイデオロギー的にしっかりしたものがあったように思う」

 さらに、有事の際の自衛隊の超法規的行動について発言し辞職に追い込まれた栗栖弘臣・元統合幕僚会議議長の問題を引き、こうも続けた。「だらしのない自民党に活を入れてやると、栗栖元統幕議長を参院選候補に担いで一戦交えた春日一幸・民社党委員長の気迫を自民党の政治家たちはどう受け取っていたか」

保守のなかで絶妙の立ち位置

 田久保氏が日本会議会長に就いたのは2015年4月、三好達・最高裁元長官の後を受けてだ。菅野完氏著『日本会議の研究』を嚆矢に日本会議への疑問が集中した16年には、現職会長として「日本会議への批判報道を糾す」との論考を発表。火の粉を振り払う役回りを演じている。そこにこんな一文があった。

 《私が日本会議の会長になったのは昨年で、それまでは代表委員として事実上、名前をお貸ししていたに過ぎない。日本会議は、一九九七年に「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が統合する形で発足した。「国民会議」には私も講師として入っていたが、そこでもたいしたことはしていなかった》

 自分が日本会議を牛耳っているかのように新聞に報じられたことへ反論している場面なのだが、会長になる以前の立ち位置がうかがい知れて興味深い。というのも、総保守化も指摘されるこのご時世だ。日本会議が標榜する「草の根保守運動」の中枢から4代会長が選ばれてよさそうなものだが、保守には保守の複雑な人間模様があり、路線対立やさまざまな系譜もあって、どの人も収まりがつきづらいと判断されたのだろう。

 その点、田久保氏は絶妙の位置に立つ、実にすわりのよい人物だったと聞く。広範な組織、個人にウィングを広げるうえでも、田久保氏の原籍である「旧民社系」をさらに運動に引き込む効果もある。民社協会の地方議員ネットワークやUAゼンセンのような活発な労働組合の存在は戦力として魅力的に映ったに違いない。

塚本元委員長ら「明治の日」訴え

 憲法記念日の4日前、4月29日には、東京・明治神宮の神宮会館で「昭和の日をお祝いする集い」があった。実行委員会を組織するのは、「みどりの日」を昭和天皇誕生日由来の「昭和の日」に改める祝日法改正を実現した人々だ。

昭和の日実現に奔走した人々の「お祝いする集い」。明治の日制定運動とも深くかかわっている=2019年4月29日、東京・明治神宮会館、筆者撮影
 その人々の多くはいま、11月3日の「文化の日」を明治節(明治天皇誕生日、戦前の祝日)にちなんで、「明治の日」へと改める運動に奔走している。団体名は「明治の日推進協議会」。会長は塚本三郎・元民社党委員長が務める。協議会を取り仕切る高池勝彦・事務総長は「新しい歴史教科書をつくる会」会長で、旧同盟系の労働弁護士として広く知られている。最近では、神社本庁(全国8万社)の正常化を求める「神社本庁の自浄を願う会」代表となり話題になった。

 その高池氏もまた、田久保氏と同じく早大法学部時代からの社思研メンバー。研究会には同じ頃、のちに産経新聞社社長に就く住田良能氏、河合栄治郎の評伝などがある湯浅博・元産経新聞論説委員やロシア政治の木村汎・北大名誉教授、民社党中央執行委員になる梅澤昇平・尚美学園大名誉教授らがいた。補足するなら、この人々にもう一点、ほぼ共通するのが櫻井よしこ理事長の国家基本問題研究所(国基研)との深い関わりだ。国基研は櫻井氏が構想し、田久保・高池両氏が設立時から賛同者集めなどに深く関わった政策集団。現在、両氏は副理事長、梅澤氏は評議員長の任にある。

 設立集会(2008年)時点の名簿をみると、理事に石原慎太郎・元東京都知事、歴史学者の伊藤隆・東大名誉教授、塚本三郎氏や、高池氏が「南京事件の裁判を一緒にしませんか」と勧誘したという弁護士、稲田朋美・元防衛相らの名がある。さらに続けると、当時の評議員長は日本経済新聞のコラムニストだった井尻千男・元拓殖大日本文化研究所長。 評議員に作曲家のすぎやまこういち氏、「特定失踪者問題調査会」の荒木和博代表、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)会長の西岡力・元東京基督教大学教授らが名を連ねている。

拉致問題に取り組み

 今年1月中旬、東京・芝の友愛会館で民社党OB会・結党60年を祝う集いがあり、前出の特定失踪者問題調査会代表、荒木和博・拓殖大学教授も姿をみせた。荒木氏は慶大法学部を卒業、民社党職員になった人物。ゼミの指導教授は、民社研の主要メンバー、政治学者の中村菊男氏だった。

 荒木氏にとって、転機は民社解党。新進党への移籍を断り、独立した。北朝鮮による拉致問題に取り組み、国民運動を組織した。運動の先頭に立った「民社人権会議」の代表幹事は田久保氏が今も務める。荒木氏とともに拉致問題に取り組んできた元民社党職員、眞鍋貞樹氏は解党時、東京都小平市議。現在は拓殖大教授として教壇に立つ。解党の前後、独立した党職員には、党広報部長を務めた評論家、遠藤浩一・元拓殖大教授もいた。

 詳細は別稿で後述するとして、拓殖大は旧民社系の人々と関係が深い。社思研・民社研の重鎮だった矢部貞治・元東大教授は反共の論客で、1955年から64年まで第10代拓殖大総長。東大新人会幹事長や日本共産青年同盟委員長を務め、獄中で転向した民社研の竪山利忠氏も戦後、拓殖大で教授となった。また、17代総長の藤渡(ふじと)辰信氏はもともと民社党職員だった。

 党消滅後の政治家はどうか。民社系政治家の「現住所」は自民党から立憲民主党までさまざまだが、荒木氏らが切り開いた拉致問題への熱心さは共通している。

 山谷えり子参院議員(自民)の初陣は1989年の参院選で、民社党比例代表区の候補者17人のうち名簿登載は5番目。当選は2人どまりで山谷氏は落選した。その11年後、民主党から衆院選に出て当選。保守新党で落選した後、自民党参院議員として3度の当選を重ねている。山谷氏は2014年から1年間、拉致問題担当相を務めた。

 民社党で初当選した現・国民民主党の柳田稔参院議員は菅直人内閣の法相・拉致担当相。UAゼンセン出身の川合孝典氏は国民民主党拉致問題対策本部長代理、民社党職員だった村上史好・衆院議員は立憲民主党拉致対策本部事務局長。同じく民社党職員だった高木啓衆院議員(自民党)も最近、拉致問題がらみで委員会質問に立った。いち早く拉致問題を取り上げた西村真悟氏は1993年の総選挙で民社党から初当選。新進、自由、民主、日本維新の会で当選を重ねたが、現在議席を失っている。父は西村栄一・民社党委員長。

元号の法制化を求めて

 平成から令和へ。おのずと元号法への注目が高まった。実は、この法律の制定には旧民社党・同盟が深く関わっている。

 1970年代後半、元号法制化実現運動という保守国民運動があった。新憲法下、法的な裏付けを失った元号について根拠法を早期に制定すべし、との世論が急速に高まった。そこで組織された元号法制化実現国民会議(議長=石田和外元最高裁長官)の実務を取り仕切ったのが、若き日の日本会議事務総長、椛島有三氏らのグループ「日本青年協議会」(日青協)だ。

 元号法は79年に制定・施行され、同国民会議は2年後、看板を「日本を守る国民会議」に掛けかえて再出発。97年に「日本を守る会」と統合して、日本会議へと発展、今日に至っている。元号法制化運動は「草の根保守」の成功モデルとして後々語り継がれることになるのだが、民社・同盟勢力にとっても、当時「民族派」を自称していた人々との共闘は画期だったのではないか。

 運動の最中、元号法制化実現国民会議の総決起大会が78年10月、日本武道館であった。日青協の機関誌「祖国と青年」によると、来場者は2万人。石田議長の主催者あいさつなどに続いて、3人の意見発表があり、社会学者の清水幾太郎・元学習院大教授、「美容体操」の竹腰美代子氏に続いて、同盟の天池清次会長が運動への決意を語っている。「祖国と青年」は前振りにこうつづっている。

 《次に労働界を代表して天池清次同盟会長が登壇した。本大会のような民族法案を実現せんとする大会に労働界の代表が出席し発言することは初めてのことだけに満場の参加者が一斉に耳を傾けた》

 天池氏は「同盟の天池でございます。まず最初に、同盟は元号制定につきまして、法律化する必要があるということをここに表明します」と組織の決定を明らかにしたうえで、①元号は国民生活の中に溶け込んでいること、②元号は日本の歴史の中から生まれたもので、歴史を尊重しない民族は滅ぶこと、などを訴えた。会場は割れんばかりの拍手で包まれたのだという。同誌はこう結んでいる。

 《労働運動のリーダーと言えば、とかく左翼的だと思われがちだが、天池会長は「歴史を尊重しない民族は滅びる」との歴史認識にしっかりと立って力強く法制化の決意を述べた。この一事をもってしても、いかに元号法制化運動が全国民的な運動であるかが理解できる》

「建国記念の日」式典での万歳三唱

 国政側からは民社党が後押しした。超党派「元号法制化促進国会議員連盟」(西村尚治会長=自民党)の事務局長は、のちの民社党書記長、中野寛成氏。結成大会で議連の設立趣旨と経過報告をしたのも和田春生・元民社党副書記長で、大事な役回りを同党が果たした。

 国民運動を標榜している以上、民社党・同盟を運動に巻き込んだことは大金星だったにちがいない。「祖国と青年」は議連結成時、こう書いた。

 《地方において『草の根』的な国民運動が展開され、その声が中央政界に反映して国会議員を動かしめたことは、戦後の民族運動史上の快挙と言ってもよいだろう》

 中曽根政権の1985年、歴代首相として初めて「建国記念の日」の式典に現職首相が出席することになった。憲法の政教分離規定をクリアすべく、主催団体として政府肝いりの新団体を設立。宗教色が薄くなることに批判的だった神社や保守団体が強くこだわったのが、聖寿万歳(皇室の弥栄をお祈りするとの意味)の履行だった。

 「建国を祝し、天皇陛下のご長寿を祈って」。式典当日、万歳三唱の先導役を引き受けたのはこれも同盟の宇佐美忠信会長だった。宇佐美氏の回想『和して同ぜず 私と労働運動』によれば、保守運動の世話役、末次一郎氏らによるすすめと、自民党国民運動本部長だった中山正暉氏からの強い要請があり、自らの信念で応じたという。(つづく)