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「反マルクスの社会主義」 民社党の遺伝子

日本会議と共闘する労働戦線は、どう作られてきたか <2>

藤生 明 朝日新聞編集委員

 予期せぬ答えが返ってきた。「ぼくは社会主義者。今でも」「保守とは呼ばれたくない」

 新しい歴史教科書をつくる会会長を務める高池勝彦弁護士。弁護士から思いがけない言葉を聞いたのは3月上旬、都心の法律事務所だった。早大時代、社会思想研究会(社思研)に一緒に通ったという先輩、元民社党中央執行委員の梅澤昇平・尚美学園大学名誉教授も同席してくれていた。

 取材の途中、高校時代から憲法改正に熱心だったのに、なぜ自民党学生部ではなく民主社会主義の学生団体や社思研に入ったのか、高池氏に尋ねたときだ。冒頭のような言葉が返ってきたのだ。

 前後関係を含めて記せば、「自民党は嫌い。正直言えば今だって嫌いだよ。ぼくは社会主義者だから、今でも」。そして、自分たちの運動が保守とくくられることにも首をひねった。「ぼくはあまり保守と呼ばれたくないんだよなあ」。梅澤氏もうなずいた。「保守はすわりが良くないんだよねえ、なんだか」

高校時代に「日米安保支持」の討論会

 歴戦の反共の闘士2人だ。「社会主義」とはもちろん、マルクスの社会主義のことではない。マルクス主義は間違った社会主義思想であって、英国労働党のような改革改良による「民主社会主義」こそ、真の社会主義だという強い信念がこめられている。

新しい歴史教科書をつくる会の高池勝彦会長。改憲、明治の日制定、神社本庁正常化などに取り組んでいる=2019年4月29日、東京・明治神宮の神宮会館
 高池氏は1942年、東京・下井草生まれ。「国のために尽くせ」が口癖だった父親は雑誌編集者だった。3歳で父の故郷長野に疎開。高校まで過ごした。中学高校では弁論に熱中。高校時代にはすでに憲法改正の必要性を説き、60年安保闘争当時、「安保粉砕」と叫ぶ学生らの報道をみて、明確に「ちがう」と思った。生徒会長として校内に呼びかけて「安保を考える会」を全校集会として開催。「日米安保支持」の立場から討論したという。

 半面、子どもの頃から社会の格差、貧困、差別、不平等、不公正といった世の不条理が許せなかった。働く者の地位向上をめざして労働問題の弁護士になった。最近になって、中学時代に自ら書いたものを後輩から手渡された。そこには「カネ中心の世の中はやめよう」と書いてあった。

 高池氏や梅澤氏らが「社会正義実現」の指針とした民主社会主義とは何なのか。国民運動の先頭で奮闘する彼らの考え方を深く知るには、民主社会主義を理解しないといけない。

労働運動の源流に福沢諭吉

 旧同盟本部跡地(東京・芝)に建つ友愛会館(2012年竣工)。その8階に友愛労働歴史館がある。展示は、運動の歴史を説明した常設展と、年2回開催の企画展の2部だてで、これまで「戦後民主化リーダー片山哲」「鈴木文治・友愛会と吉野作造」「賀川豊彦と友愛会・総同盟」といった企画展が催されてきた。今は「民社党結党60年展」(〜6月28日)が開催中だ。

労働運動の発展のきっかけをつくったとされる福沢諭吉=2019年2月26日、東京・芝の友愛労働歴史館

 今年1月中旬、民社OB会総会・懇親会が結党60年祝いも兼ねて同会館であった。懇親会の出席者は塚本三郎元党委員長や西村真悟元衆院議員、防衛大学校の佐瀬昌盛名誉教授、産経新聞社の熊坂隆光会長ら約70人。総会・懇親会に先立ち、歴史館事務局長の間宮悠紀雄氏から運動史のおさらいを受けた。

 「あとで見てもらいます常設展示で、一番最初に出てくるのが福沢諭吉です。福沢がユニテリアンの人たちを招き、彼らは教会を建てて——」。歴史館に入ると、間宮氏の説明どおり福沢諭吉の肖像画が目に飛び込んでくる。のちに友愛会・総同盟へと発展するきっかけは、福沢や金子堅太郎(明治憲法起草者の一人)らが1887年、米国から招聘したユニテリアン教会(キリスト教の一派とされる)の牧師だったと解説されている。

友愛労働歴史館で催された企画展の数々。日本労働運動の歴史がわかる
 1894年には、鹿鳴館などで知られるJ・コンドルの設計で教会「惟一館」が竣工。キリスト教徒だけでなく、仏教徒なども集まった。展示内容に従えば、内ケ崎作三郎(早大教授、衆院副議長)、星島二郎(衆院議長)、河上丈太郎(社会党委員長)、大山郁夫(早大教授)、市川房枝(婦人運動家)らが集い、ユニテリアンミッションとされる「自由の拡張」「社会問題の解決」に取り組んだという。

 その教会を足場に、鈴木文治が1912年、労働組合「友愛会」を結成した。友愛会はその後、総同盟となり、第一回普通選挙の社会民衆党(安部磯雄委員長、片山哲書記長)の設立母体となる。彼らの組織・運動は戦時中、産業報国会、大政翼賛会でいったん途切れるものの、戦後、社会党、民社党へと脈々と続いていく。展示はおおむねそんな流れで進められている。

「左右の全体主義に反対」「幻想的な平和主義を排す」

 さて、さきほどの間宮氏のレクチャーに戻ろう。間宮氏は説明の終わりに、「民社党の志、民社党の遺伝子とは——」という表題のスライドを指さしながら、一部を読み上げた。

  1. 民社党の志とは、民社の遺伝子を残すこと。遺伝子とは民社党に始まるものではなく、戦前から続く運動の歴史の中にある。
  2. それは安部磯雄が主導した1901年の社会民主党、同じく安部が創立した1926年の社会民衆党、どちらかを起点とする民主的な社会主義政党の歴史である。
  3. そこを貫くものは弱肉強食の経済を打破し、貧困と不条理をなくすこと。そのため左右の全体主義に反対し、自由と民主主義の政治を実現することである。
  4. 自由にして民主的な労働運動を支援し、階級的労働運動を打破する。
  5. 幻想的な平和主義を排し、現実的な平和主義を進めること。日本の伝統を尊重し、継承することである。
  6. 戦前の安部磯雄や鈴木文治らユニテリアンが共有した理念「自由の拡大、社会問題の解決」は民社党の志の原点、背骨である。

 以上を読み上げた後、間宮氏はこう結んだ。「民社党の志、遺伝子はもっと昔からの安部磯雄の社会民主党、社会民衆党の延長線上にあるわけであります」

友愛会館の入り口に設置された労働運動功労者。左から鈴木文治、松岡駒吉、金正米吉
 安部磯雄は同志社の新島襄から洗礼を受けたキリスト教社会主義者。同志社大・早大教授。無産政党右派の指導者として活動した。

 社会民衆党で安部委員長・片山哲書記長のコンビを組んだ片山元首相は自著『安部磯雄伝』(1958年)で、今日の大をなした社会党の「第一の指導役はなんといっても安部磯雄だ」とし、社会においても廃娼などにいち早く取り組んだ先見性をたたえている。

 そうした労働運動の黎明を描いた大河内一男・元東大総長(社会政策)の有名な著作『暗い谷間の労働運動』は1912年8月1日午後7時、ユニテリアン教会図書室に15人がひそかに集まる場面から始まる。東大出のキリスト教徒、鈴木文治を中心に畳職人、機械工5人、塗物職人、電気工2人、牛乳配達夫、巡査、散水夫3人。労働組合を結成しようというのだ。

命がけで労働組合を結成

 多数の社会主義者・無政府主義者が明治天皇暗殺容疑で一斉に検挙された思想弾圧「大逆事件」(1910年5月)から2年あまり。治安警察法17条はストライキ権や団体交渉権を制限していて、労組結成は命がけだった。そこで、鈴木は名称を友愛会とし、共済、親睦、娯楽を目的とする団体を標榜したのだ。「着々、組合建設へ進んだことは賢明な方法だった」と大河内はその戦術を評し、顧問や評議員に多くの知名の人士の協力を取りつけたことで、友愛会は信用を少しずつ獲得していった。

 顧問に日本興業銀行総裁を務めた添田寿一。高名な社会事業家、小河滋次郎。鈴木の恩師で社会政策学会の創立者の一人、桑田熊蔵・中央大教授。評議員には鈴木と同郷のキリスト教徒、吉野作造・東大教授ら。大学との関係で名前を出さなかったものの、安部磯雄はユニテリアン教会の中心人物の一人でもあり、陰に陽に鈴木を支援した。

 ところが、第1次世界大戦後の社会変化が漸進主義の友愛会を大きく揺さぶることになった。ロシア革命、米騒動、組合員の先鋭化、要人暗殺、関東大震災……。そして、鈴木らの運動に理解を示してきた財界人、渋沢栄一との対立、決別だった。(つづく)