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「ひっそり逝く自由」を考える~ある著名学者の死

「訃報になりたくないという願い」を遺した人の訃報を載せるべきか否か

市川速水 朝日新聞編集委員

訃報記事を巡る変遷

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 新聞社の編集局には、見出しを付け、紙面全体のレイアウトを考えたり、どの記事を何面に載せるかを判断したりする整理部(朝日新聞では「編集センター」という呼称)という重要な部署があるが、昔から「最も大事な仕事の一つ」といわれてきたのが訃報記事の扱いだ。

 私も整理部に勤務していた時、研修の一つとして「誰が亡くなったら、どの面でどのぐらいの大きさか」を瞬時に判断するというテストをされたことがある。実際、夕刊編集の現場で若手の歌手が自殺したというニュースが飛び込んで来た時、中年の整理マンが普通の訃報にしようとしたら、そばでアルバイトの学生が大騒ぎしているのを見て、あわてて大きな見出しを付けたのも見てきた。判断力を磨こうにも、伝統芸能から研究者、昔の政治家の業績まで網羅することは不可能なことだ。

 このように掲載基準は、あるようなないような曖昧さなのだが、約30年間の平成時代に顕著になった二つの現象がある。それは、通夜や葬儀を親族ら近親者で済ます、あるいはすでに済ませてしまって葬儀に駆けつける需要に応えられない例が増えたこと。もう一つは、亡くなったことすらすぐには公表されず、しばらくしてから何らかの理由で明らかになって訃報として世に出ることが多くなったことだ。

 この変化を分かりやすく示す実例が、平成の初めに起きた。美空ひばりさんが1989(平成元)年6月、52歳で死去した。0時28分に病院で亡くなり、その日付の朝刊に各社が1面や社会面で大展開するという、寸秒を争う報道合戦が真夜中に繰り広げられた。

 これが昭和の名残の訃報取材だとすると、対比されるのは、その3年後の5月、漫画「サザエさん」の作者として知られる長谷川町子さん(当時72歳)が亡くなったことだ。公表されたのは約1カ月後だった。町子さんの強い遺志で死去が伏せられていたが、納骨が済んだので姉が公表に踏み切った、とされた。

 ムード歌謡「有楽町で逢いましょう」の歌手、フランク永井さん(当時76)も、2008年、近親者で葬儀が営まれ、1週間後に死が明らかになった。ステージから離れて23年が経っていた。

 昭和の時代を彩った人たちの死は、それ自体がニュースといえる。第一線から退いて永くても、本人に公表されたくない遺志があったとしても、歴史上の人物として記録される「宿命」を帯びる。

 戦前から戦後にかけて映画界のトップスターだった原節子さんは、引退して53年も経った2015年9月、95歳で亡くなったが、報道されたのは2カ月半後だった。

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筆者

市川速水

市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員

1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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