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性犯罪無罪判決、本当の問題点は何か

司法関係者の犯罪者と被害者に対する洞察力の欠如こそ問題だ

河合幹雄 桐蔭横浜大学法学部教授(法社会学)

花やプラカードを手に、性犯罪や性暴力の無罪判決に抗議するフラワーデモの参加者たち=2019年5月11日、大阪市北区
 性犯罪に対する無罪判決が相次いでいると報道されている。しかし、最新の司法統計年報によれば、平成29年、一年間で「わいせつ、強制性交等及び重婚の罪」の通常第一審事件の結果は、有罪1308件、無罪7件、有罪確率は99%を軽く超えている(第33表、44頁)。報道も、それに対するコメントもあまりにもいい加減との印象を禁じ得ない。百歩譲って、性被害女性のためになるかどうかという観点で発言されているから許容するという立場からも、実は、全く誤った議論がなされてしまっている。まず、刑事司法制度に対する誤解を解くとともに、本当の問題点、改革すべき点を示したい。

 ネットの書き込みや週刊誌上で裁判官への非難がなされていることには少しも驚かない。私も法学を学ぶ前は同じ反応をしていたであろう。しかし、「有識者」の中にも同様の発言があり、取材したうえで記者が書いてデスクがチェックしているはずの新聞紙上にまで、それがみられることは残念なことである。私は、冤罪事件の度に警察と検察が批判されるのを批判し、冤罪判決の責任は第一義に有罪判決をだした裁判官にあると主張してきた。今回の無罪判決は、もし仮に本当に性被害があったとしても、それを立証できなかった検察官の失敗であって裁判官による失態ではない。

 裁判官は、100人中99人が有罪と言うにもかかわらず、一抹の疑念があれば無罪というのが役割である。とりわけ性犯罪の場合、誰もが被害を主張する女性の味方についてしまい、冤罪が生まれやすいことは、これまで多数の事例によって実証済みである。冤罪を生むリスクと真犯人に無罪判決をだしてしまうリスクを天秤にかけて、真犯人に無罪判決を幾つかだすことは許容せざるをえないのである。

 もっとも、このようなそもそも論は、正しいのではあるけれども、聞いて気分が良くないのも確かである。この原則論を強調し過ぎることによって、大事なことが抜け落ちてしまわないかという指摘もされている。しかし、実は、そこに勘違いがあることを示したい。

問題なのは不起訴処分の数

 性犯罪者にできるだけ有罪判決を出したければ、問題なのは無罪判決の数ではなく、不起訴処分の数である。送検事件の約半分しか起訴されないということは、逮捕され検察官に送致されたにもかかわらず、検事が不起訴と判断し裁判にかけられない事件が千のオーダーあるということである。このうちの何割かは、本当に嫌疑なしなど、真犯人でないケースであるとしても、多くは、示談成立等で起訴猶予や嫌疑不十分(証拠不十分)で不起訴である。その数は、今回問題にされた無罪判決の数より二けた上であろう。

 これらの事件を起訴すれば、その何割かは有罪になり、有罪判決は増える。その結果、当然、無罪判決も増える。これが正しい方向である。現在は、検察官は起訴を絞りに絞り、裁判官は必ず有罪にするという奇妙な運用なのである。このことは検事が決定者で、勝負は取調室で決し、判事がかかわる第一審はまるで控訴審であることを意味する。平野龍一が「日本の刑事司法は絶望的である」と述べた所以(ゆえん)である。一応、このような運用の正当化理論はあり、日本では、ひとたび起訴されれば、たとえ無罪判決がでても社会的に葬られる恐れが大きいので、慎重に起訴するというものである。

 また、被害者が公判を望まないということも言い訳にされてきた。今後のあるべき方向は、

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