2019年05月20日
平成最後の国政選挙となった衆院補欠選挙で、沖縄ではオール沖縄が推薦する屋良朝博氏が自公推薦候補を破って当選した。昨秋の沖縄知事選でも野党が推す自由党の玉城デニー氏が圧勝したのは記憶に新しい。屋良氏も玉城氏も辺野古新基地建設反対、工事の中止を公約に掲げて当選した。
立て続けに行われた選挙の結果、沖縄民意は辺野古建設にノーを突き付けた。補選前の新基地建設の可否を問う県民投票でもノーの結果が出ている。
喫緊の3つの投票結果で沖縄県民の意思は歴然としている。しかし安倍政権はこの結果を認めようとはしない。安全保障や外国との約束は中央政府と国の専権事項で、沖縄県民には決定権がないというのだ。それはおかしな話ではないか。
沖縄が日本国に属し、その日本が民主主義を標榜する国ならば、沖縄の基地問題の行方の決定権は主権者である沖縄県民にあるはずだ。
玉城知事は選挙結果を受けてたびたび、官邸を訪ねて安倍首相や菅官房長官に面会し工事の中止を要望したが、沖縄側は実りある回答を得てはいない。首相は「沖縄民意に寄り添って解決する」と口ではいうが、その舌の根も乾かないうちに、工事再開を繰り返しており、聞く耳を持たないという態度に見える。
沖縄県民が諦めるのを待っているのだろうか。
昨秋、玉城知事が当選した直後、辺野古の今を自分の目で確かめるほかないと考えて、沖縄へ出かけた。
私は新聞記者時代に何度か沖縄を取材してきた。最初の沖縄取材は1975年、沖縄が米国統治から本土復帰した直後だった。
沖縄の県民感情には復帰の希望と同時に本土(ヤマトンチュ)に対する反感が渦巻いていた。昨年の直木賞に選ばれた真藤順丈氏の『宝島』に描かれた混沌、混迷が沖縄を覆っていたと思う。本土が独立してなおアメリカの植民地として据え置かれた恨みの反米感情には、ヤマトンチュに対する歴史的な怨念が積み重なっていた。
「30年目の戦後」という朝日新聞のシリーズで私は沖縄を担当したが、何をどう書こうか途方に暮れたことを思い出す。
沖縄タイムスの編集委員の新川明氏に会い、話を聞いた。当時の新川氏は「反復帰論」を唱えていた。米軍統治時代が良かったわけではない。しかしヤマトへの復帰は沖縄人の魂が許さない。その理由は沖縄と本土の歪んだ歴史的関係にある。本土はその歪みを糾(ただ)さないし、糾そうともしない。
沖縄はもともと琉球王国だった。その平和な王国が江戸時代に薩摩藩によって侵略され琉球人は薩摩の奴隷のように扱われ収奪された。明治維新に琉球処分が行われ王朝は潰されて「沖縄県」になった。さらに太平洋戦争で沖縄は本土の盾に使われ、日本軍は逃亡し、住民を巻き込む地上戦が行われ、4人に1人が戦死した。そのあとアメリカ軍が全島を占領し、普天間に前線司令部を作り、沖縄人の土地を奪い、全島に軍事基地を置いた。
「沖縄が本土から支配され犠牲になった歴史もそうだが、本土と琉球は違う国。琉球王国の時代から台湾や東南アジア諸国と近く、民族的、地勢文化的風土やものの考え方、宗教観、死生観も違う。アメリカ世が終わるならば、明治維新に琉球処分をしたヤマトの国に戻るのでなく、琉球独立や反復帰論へ行き着かざるをえない」という趣旨のことを新川氏は語った。革新政党も含め、本土政治の目先の政治力学や政治的な計算で沖縄の本土復帰を考えるべきではない、それでは沖縄の未来が見えない。新川氏は当時の沖縄人が本土復帰に抱く幻想を強く戒めていた。本土に再び裏切られるのではないか。
今、辺野古基地建設の民意を問う選挙で何度もノーの結果が示されながら、本土政府は話し合いもせずに強引に工事を続行している。復帰後の沖縄は再び本土から裏切られている。
平成天皇は1975年、沖縄初訪問の「ひめゆりの塔」慰霊時の火炎瓶事件を受けて、こんな琉歌を詠んだ。
花よおしやげゆん(花を捧げます)
人知らぬ魂(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
戦ないらぬ世よ(戦争のない世を)
肝に願て(心から願って)
(ブログ「生きる」918から引用)
またハンセン病療養所「沖縄愛楽園」訪問時の思い出を、琉歌(りゅうか)に詠み、皇后が作曲した「歌声の響き」がある。この歌は平成天皇在位30周年式典で披露された。沖縄愛楽園は名護市にあり、辺野古基地やキャンプシュワブにも近い場所にある。
平成天皇は琉球王国時代に編纂された歌謡集『おもろさうし(オモロソウシ)』から琉歌を写し取って作法を学んだというが、琉歌を作るのは極めて難しいとオモロソウシ研究家も語っている。
「沖縄に寄り添う」と安倍首相はしばしば口にするが、沖縄人の辛い思いに最も寄り添った本土の人は平成天皇だったのではないか。天皇在任中の11回にわたる沖縄各地への戦没者慰霊の旅の積み重ねを見てもそれがわかる。
ところで、その後、新川氏は沖縄タイムス編集局長を経て社長、会長の管理職になった。現在はすでに役職を退任していたが、再び新川氏の話を聞きたいと思い連絡すると、快く応じていただいた。
約40年ぶりの再会だったが、新川氏の考えは復帰の当時と変わっていなかった。高齢になってはおられたが、ぶれないジャーナリスト魂を見た思いがした。
新川氏は「若いころは労働組合運動で八重山支局に飛ばされていた」と笑っていたが、その飛ばされていた時期に南西の離島の島々を回って蓄積した沖縄の文化風土に詳しく、独自の「ニライカナイ」の世界観、死生観の哲学的考察も著書に著している。ウチナーンチュュとヤマトゥンチュの交わることのない文化的基層認識の乖離は、本土の人間の理解を超えて深い。
「沖縄人がみずからを表現するとき『ウチナーンチュ』といい、沖縄人以外の日本人を呼ぶのに『ヤマトゥンチュ』または『ヤマトゥー』と規定する。・・その出身地や社会的身分、職業や性別などにかかわりなく日本本土の人間はおしなべて『ヤマトゥンチュ』であり、その人々が住む国土は『ヤマトゥ』である」。このような沖縄人の基本認識は「沖縄人は日本人であり、まぎれもない日本国民であるということを、いかに学理的に立証し、政治的に主張しても決して消し去ることはできない」。(「幻想としての『大和』」参照)。
「でも、私は思うのですが、沖縄には本土といろんな関わりの歴史があるが、やはり太平洋戦争の地上戦ね、あれを沖縄の人たちはまだ忘れていないのです」と取材を終えて、別れ際に新川氏はいった。本土の日本人が沖縄は日本と思っていても、沖縄人はそうは思っていないということだ。
その乖離は沖縄地上戦の惨劇で一層深まり、戦後70余年経っても埋まってはいない。
沖縄が本土から切り離された場所であることを象徴するのは沖縄全土に拡大している米軍基地であり、辺野古新基地建設なのだ。
新川氏に会った翌日、私は辺野古基地を取材に行った。
亡くなった翁長雄志知事の遺言を引き継いだ玉城新知事が就任したばかりだったが、中断していた工事が早くも再開、という情報が流れていた。新知事へのあてつけのようにも思われた。
那覇から辺野古までの交通の便は悪く、レンタカーを借りるか、一日に2,3度しか出ていない乗り合いバスに乗り、片道2時間ほどの時間をかけて行くしかない。タクシーだと往復3万円かかるという。
住民たちが辺野古まで共同運航するバスが県庁前から出ているという話を聞いて、住民の方に頼み込みバスに乗せてもらうことができた。
島の西側にある辺野古の海は東海岸の海のような輝きを放ってはなかった。かつての美しく澄んだ海の面影はもうなく、埋め立て工事の影響で大量の泥が混じり、くすんだ色の海があった。天然記念物のジュゴンの姿はもう見られないということだった。
バスがキャンプシュワブの米軍基地ゲート前に到着すると米軍側と基地を守る日本の警察の警戒が強まっていて、工事再開に抗議する地元住民の間では緊張感が漂っていた。
工事車両が来るということで、テントの中にいた住民たちはゲート前に移動して集会とデモを始めた。このテント内の座り込み風景は本土のテレビでも度々報道されてきたから映像では見ていたが、
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