藤生 明(ふじう・あきら) 朝日新聞編集委員
1967年生まれ。91年入社。長崎、筑豊、小倉、博多に勤務。2001年、雑誌AERA。12年、新聞に戻り大阪、東京両社会部。17年から右派・保守国民運動を担当する編集委員。著書に『ドキュメント日本会議』『徹底検証神社本庁』(ともにちくま新書)
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
日本会議と共闘する労働戦線は、どう作られてきたか <3>
「労使協調は、使ってはいけない言葉だと……」。友愛労働歴史館(東京・芝)の見学中だった。聞き耳を立てるでもなく、他の見学者と歴史館職員の会話が自然と聞こえてきた。
声の主はその日、労働運動の研修中だった現役の組合員だ。空き時間に歴史館を見学に訪れ、事務局長の間宮悠紀雄氏との間でそんな会話になったらしい。あとで間宮氏に尋ねると、旧同盟系の労組には歴史的な経緯から<使わない言葉>がいくつかあるという。その一つが「労使協調」とのことだ。
理由の一つは、左派労組が長年、同盟系労組を「労使協調の戦わない組合」などと悪い意味で使い、攻撃してきたこと。もう一つは戦前、渋沢栄一(1840―1931)が旗振り役をした「協調会」への参画をめぐって、友愛会の鈴木文治が渋沢と決裂したことに由来するという。
協調会は1919年、原敬内閣が肝いりで設立した労使(労資)協調を目的とした財団法人だ。第1次世界大戦の特需で日本経済は急拡大した半面、労働争議が激増。そこにロシア革命や米騒動が追い打ちをかけた。とりわけ、米騒動は瞬く間に全国へ拡大。暴徒化した民衆に対し、全国約120カ所で軍隊が鎮圧に当たっている。
資本家層はおびえた。同時期、労働者の気質も変わり、労働組合の運動も活発化していく。そうした社会情勢の中で構想されたのが、労・資・公益・政府の四者で管理する労使協調機関の設置だった。床次(とこなみ)竹二郎内相の下、警保局(警察行政を統括)を中心に立案。団琢磨が理事長を務める日本工業倶楽部(1917年設立)といった財界側も話し合いに加わり、1919年8月の発起人会をへて12月に発足した。
友愛会の鈴木文治はこのとき、財界の世話役であり友愛会の庇護者だった渋沢と決裂している。鈴木の自伝『労働運動二十年』によると、日本橋の渋沢事務所から呼び出され、発起人に加わるように渋沢から要請されている。こんな内容だ。「学者、実業家の顔は揃ったが、労働者のほうが一向に揃わない。貴君にぜひ発起人の中に入り、将来、理事なり評議員なりの列に加わって、骨折っていただきたい」