藤生 明(ふじう・あきら) 朝日新聞編集委員
1967年生まれ。91年入社。長崎、筑豊、小倉、博多に勤務。2001年、雑誌AERA。12年、新聞に戻り大阪、東京両社会部。17年から右派・保守国民運動を担当する編集委員。著書に『ドキュメント日本会議』『徹底検証神社本庁』(ともにちくま新書)
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
日本会議と共闘する労働戦線は、どう作られてきたか <3>
しかし鈴木はこう返答した。「今どき協調会のようなものをつくることは有害無益です。なぜなら、労働組合の発達は産業の発展に伴う必然の現象であって……」。渋沢は慌てた。鈴木の言葉を遮って、協調会の趣意書や目論見書、規則を見せている。これに対し、鈴木は参画のための6条件を提示した。
こうした条件が受け入れられるならば、協調会に加わって力を尽くすと、鈴木は応じている。
二人の信頼関係は1915年、高まる日本人移民排斥運動に対処すべく、日本労働代表として渋沢らが鈴木を全米労働大会に特派して以来だった。機関誌『労働及産業』にもたびたび寄稿し、友愛会の5周年祝いには自宅庭園を会員らに開放したほど、渋沢にとって鈴木は信頼のおける人物だった。
その鈴木が容易なことには、労使協調機関に応じてくれそうもない。渋沢にとっては想定外だったに違いない。友愛会が「親睦団体」的な集まりとしてスタートを切ってから7年。確かに、闘う労働組合としての体裁は整いつつあった。
とはいえ、良好な関係を築いてきた二人である。渋沢は、一個人であれば賛成するが、協調会としてはとてもまとまりそうにないと答えたという。そこで鈴木は畳みかけてもいる。「労働者階級のためを思うならば、むしろ、私の意見を政府に進言し、聞かなければ、斡旋役から手を引かれたらよろしかろう。そうでなければ、多くの労働者から恨まれます」
無遠慮な物言いに、温厚な渋沢も色をなし、訣別の言葉を述べた。「貴君は貴君の道をお歩みなさい。せっかくご懇意には願いましたが、こうも意見が違う以上、公の交際は今日限りとお考え願います」。渋沢と袂を分かった鈴木は『労働及産業』(1919年9月号)の巻頭に、「労資協調会を評す」とするこんな主張を掲載している。