メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

渋谷川とふたつの五輪――川の流れのように

武田徹 評論家

ライトアップされる渋谷川。再開発された複合施設(左)の対岸には古い建物が残る=東京都渋谷区2018年12月ライトアップされた渋谷川。再開発された複合施設(左)の対岸には古い建物が残る=2018年12月

 2020年五輪前の東京・渋谷駅とその周囲は、21世紀を迎えた頃からずっと工事中だ。

 地上3階の銀座線から地下5階の東横線・副都心線までを地層のように重ねた巨大な駅が新しく整備され、駅と繋がる高層ビルが新たに何本もそびえつつある。渋谷には「若者の街」の形容が冠されることが多いが、若者のなかには工事中の渋谷しか知らない世代も増えている。

 再開発の規模の大きさから現在の日本で「最大の工事現場」と呼べそうな渋谷は、1964年五輪当時はどのような街だったのだろうか。

 渋谷「周辺」にまで話を広げれば、そこは、言うまでもなく64年五輪で最も大きく変貌したエリアである。利用可能な広大な空間がそこにはあった。代々木練兵場等の軍事施設用地跡に造られた米軍住宅地“ワシントンハイツ”の土地だ。日米地位協定によって日本人立入禁止の治外法権区とされていた、いわくつきの場所に対して、東京都と日本政府は調布飛行場に隣接する土地との交換を提案して折衝、願い叶って立ち退きがなされた場所に五輪用の競技場や選手村が造られた。五輪開催は、占領の終了後も都心に存在していた広大な米国の“植民地”のひとつをとりあえず返還させる口実にもなったのだ。

渋谷区代々木神園町の上空から、代々木公園(旧ワシントンハイツ)内に完成した東京オリンピック代々木選手村(中央)周辺を空撮。上は代々木競技場。下は明治神宮の森代々木公園(旧ワシントンハイツ)内に完成した東京オリンピック代々木選手村(中央)周辺。上は代々木競技場。左下は明治神宮の森=1964年

 だが、そこに造られた五輪関連施設は地名からして「代々木」の冠称がつき、距離的にもイメージとしても渋谷からは多少の隔たりがあった。それに対して文字通りの「渋谷」である駅とその周囲はどうだったのか。

渋谷の発展は川を地下に埋めてゆく歴史

 渋谷の由来を辿れば、その名の通り「谷」だった。淀橋台地は宇田川と穏田川によって東西渋谷台地と淀橋台地の3つに切り分けられ、2本の川は合流して渋谷川となる(上流の穏田川まで含めて渋谷川と呼ぶこともある)。神奈川県伊勢原にある大山阿夫利(おおやまあふり)神社参拝者が利用した「大山街道」は西渋谷台地を渋谷川に向かって道玄坂を下り、川を越えて宮益坂によって東渋谷台地を上る。大山街道が渋谷川を渡る宮益橋――今ではそこが橋だったことは忘れられている――が渋谷の中心だった。

 今回はそんな谷を走る川に注目してみよう。

 渋谷の発展は川を地下に埋めてゆく歴史でもあった。宇田川は栄通り(現在の東急文化村通り)に沿って流れて渋谷川に合流するが、1905(明治38)年に川の水面上に家屋を造ることが特例的に許され、いち早く簡易的に暗渠化されている。しかし、ただ川の上に家を建てただけなので、水が増えるとあっけなく浸水する。そこで宇田川を途中から分流し、川の水量を受け入れる地下バイパス水路を新たに造った。

東京・渋谷の宮益坂(手前は渋谷川)=1910年頃(明治末期)東京・渋谷の宮益坂(手前は渋谷川)=1910年ごろ

 それ以外の川が地下化されるのは戦後になってからだ。そこでも他の東京改造工事と同じく五輪開催で弾みがつけられている。60年3月に東京都は東京都市計画下水道特別委員会を設置、翌年(61年)10月に東京都都市計画審議会に答申が提出され、了承される。その、いわゆる「サブロク答申」の中では「東京都内の一部を除いたすべての河川を暗渠化し、下水道幹線とする」と謳われていたし、審議会の議事録には首都高速道路建設でも大鉈(おおなた)を振るった首都整備局長・山田正男が「ふだん水の流れない、降雨時だけ水が流れる川、こういうものは私は市街地の中にあるべきではないと思う」と発言している。

 川は都市に不要――そんな断言までなされた時代背景は配慮する必要がある。戦前には東京23区内でも多くの水田があり、降雨や湧水で足りない分は玉川上水などの水を水田の間を流れる小川=水路を通じて流していた。しかし宅地化が進んでほとんどの水田が消え、水を流してやる必要はなくなった。それが山田の言う「ふだん水が流れない」「降雨時だけ水が流れる川」だ。そうした川に今度は宅地化による生活排水が流れ込むようになる。もちろんトイレの汚物まで川に流したわけではなく、水洗便所普及前は地下の肥溜めにためて汲み取り車=バキュームカーで集めに回っていた。こうして排泄物は一応分離されていたとはいえ、残飯なども含む生活排水が流される小川は臭ったはずだ。

 そこで、特にオリンピック関係施設の近くの下水道整備が最優先の事業としてリストアップされる。たとえば宇田川上流の支流のひとつ、河骨川は小田急線参宮橋駅の近く、代々木練兵場に沿って緩やかなカーブを描いて流れていた。その風情を「春の小川はさらさらゆくよ」と歌ったのが1912年当時に川の近くに住んでいた高野辰之で、その詩は曲をつけられ小学校唱歌として親しまれてきた。

 だが、そんな“春の小川”は1963年に消えている。五輪選手村敷地に沿って拡幅された道の地下に代々木下水道幹線が埋設され、雨水や生活排水も受け入れるようになり、河骨川と宇田川の上流は埋められて元の川筋を彷彿させるゆるやかなカーブの道になった(田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたか』乃潮)。渋谷川のもう一つの源流である穏田川も千駄ヶ谷下水道幹線が作られ、63年までに全水量を下水道で受け入れたので川自体が消滅している。

線路沿いに残る「春の小川」の歌碑=撮影・筆者線路沿いに残る「春の小川」の歌碑=撮影・筆者

開高健は“春の小川”の消滅に気づいていたか

 開高健は『ずばり東京』で渋谷を描いていないが、下水が整備されてゆく過程については触れている。「新聞社のおじさん」に連れられて江東区砂町や足立区小台の処理場を見学にいった小学生の健くんが書いた作文という設定の「ぼくの“黄金”社会科」がそれに当たる。

 東京の下水道は二割とちょっとぐらいしかないそうです。トイレを水洗にしてる家は少ないのです。だからバキューマーでくみとりをしなければいけません。そのくみとったぶんも六割ほどが海へすてられて、科学的にきれいにされるぶんはわずかなのです。だから砂町でも小台でも広いところにプールやタンクや工場がたくさんあってすごく科学的なのでぼくはとてもイカスとおもったのですが、新聞社のおじさんは腹をたてて、こんなことはなんの自慢にもならないといいました。はじめにちゃんと下水をつくってから東京をつくらなければいけないのに、目さきのことに追われたり戦争なんかしたりしてお金をムダ使いしたから、こんなものをつくらなければならなくなったんだといいました。

 生きる証の一部と考えたのか、露悪趣味なのか、小説でも排泄をタブーとせずにしばしば書いていた開高らしい作品だが、ここでは「健くん」も下水道普及の必要を訴える新聞社のおじさんの意見に異を唱えていない。日本橋川の汚れて澱んだ水を嘆くことから『ずばり東京』を書き始めた開高は、五輪直前になって遅ればせながら下水を作り、トイレの水洗化を焦り進めてゆく「近代化」については歓迎していたのだろう。

 そんな開高は東京のあちこちで“春の小川”が消滅していたことに

・・・ログインして読む
(残り:約1660文字/本文:約4605文字)